寺分

大慶寺の寺領

深沢地域の大慶寺がある一帯で、南北朝時代から戦国時代にかけて大慶寺の寺領であったところに地名は由来する。寺分が属していた洲崎郷は、新田義貞軍と幕府軍が対峙した最激戦地の古戦場で、陣出という小字が残る。

寺分

寺分について

基本情報

名称
寺分(てらぶん)
交通機関
湘南モノレール湘南深沢駅・湘南町屋駅から徒歩
所在地
神奈川県鎌倉市寺分

概要

深沢地域の臨済宗大慶寺がある一帯で、南北朝時代から戦国時代にかけて大慶寺の寺領であったところに地名は由来する。 新編鎌倉志では「てらわけ」と訓読みされ、梶原1丁目2丁目も含まれていた。 洲崎郷(寺分・山崎・上町屋・梶尾の一帯)は、1333年(元弘三年)新田義貞軍と幕府執権の赤橋守時軍が対峙した鎌倉攻め最激戦地の古戦場で、寺分には陣が敷かれていた「陣出」という小字が残る。 陣出には洲崎合戦の戦死者の霊を慰めるために建立したといわれる宝篋印塔「泣塔」が立っている。

見所

市文化財
石造宝塔(泣塔) - 文和五年(1356年)銘の宝篋印塔。洲崎の合戦の戦死者の霊を慰めるために建立したといわれる。かつて青蓮寺に遷された際、毎夜すすり泣く声が聞こえたので元の場所に戻され「泣塔」と呼ばれるようになったという。背後のやぐらに数基の五輪塔がある。
観光名所
駒形神社 - 寺分の鎮守。祭神は駒形大神であるが、地元では邇邇芸命(ニニギ)と伝えられてきた。農業の守護神として崇められ、治承年間(1177年~1181年)には領主の大庭景親が代参を遣わした。1843年再建の本殿、やぐら内に1822年造の弁財天造が祀られている。、富士信仰の名残の石塔が置かれている。
大慶寺 - 臨済宗円覚寺派の禅刹。弘安年間(1278~1287年)、宋僧 大休正念を開山に創建された。室町時代には、関東十刹に列せられた名刹である。戦国時代の兵火で長らく荒廃していたが、昭和になり再興された。
東光寺 - 高野山真言宗の寺院。創建の縁起は不詳だが、室町時代の1431年に、高野山の法印霊範が隠居所として中興した。もと青蓮寺の末寺であったが、現在は高野山宝寿院の末寺で、等覚寺住職が兼務している。
洲崎古戦場碑 - 1333年(元弘3年)洲崎郷(寺分・山崎・上町屋・梶尾の一帯)で新田義貞軍と幕府執権の赤橋守時軍が対峙した鎌倉攻め最大の古戦場。この辺りに陣が敷かれていたので「陣出」という小字が残る。北条軍は総崩れとなり、守時はじめ家臣は降伏を拒み自刃した。
富士塚 - 山崎・上町屋・寺分の境に位置している塚。富士浅間神社を祀る石碑が点在し、富士の形をまねて先人が築いた塚であると考えられる。頂上には嘉永二年(1849年)銘の釈迦の首なし石像が置かれている。
大工谷戸の横穴墓群跡 - 東光寺入口から深沢中学校の辺りは大工谷戸と呼ばれ、かつて大慶寺を修復した大工が住んでいた。かつて大工谷戸には10基以上の横穴墓が並んでいた。

歴史

縄文時代
富士塚の周囲から竪穴式住居や土器が出土し、縄文時代から人が住んでいた。
1278~1287年
弘安年間、大慶寺が創建された。
1333年
この一帯(洲崎)は、新田義貞軍と北条軍の激戦地となった。
室町時代
梶原・山崎・上町屋と共に洲崎郷に含まれ、1559年頃まで大慶寺の寺領であった。
1431年
東光寺が中興された。
戦国時代
1566年頃から後北条氏滅亡まで円覚寺塔頭の帰源庵領であった。
明治22年
寺分村が深沢村の大字となった。
昭和23年
深沢村が鎌倉市へ編入された。
昭和58年
住居表示により、山崎の一部を含めて寺分1丁目~3三丁目となった。

撮影後記

 泣塔がある陣出一帯は、戦前は低い丘陵地帯で山腹に神明社や諏訪社が祀られ、やぐら群もあり、ラジウム鉱泉の「陣出園」「神明温泉」という旅館も建っていたそうです。 戦時中に海軍が軍需工場を建設し、戦後は国鉄の車両基地などに受け継がれ、一帯の風景は様変わりしています。 唯一、泣塔だけが祟りを恐れて破却されなかったので、往時の雰囲気を留めています。

更新履歴

2015年10月17日
初版をアップロードしました。

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