東慶寺

縁切り寺

「縁切寺」「駆け込み寺」として広く知られる臨済宗円覚寺派の名刹。封建時代、縁を切りたい妻は、当寺に駆け込めば離縁できる女人救済の尼寺であった。また、「花の寺」としても大変人気があり参拝者で賑わう。

東慶寺

東慶寺について

基本情報

山号寺号
松岡山東慶総持禅寺(しょうこうざんとうけいそうじぜんじ)
別称
東慶寺、縁切り寺、駆け込み寺
宗派
臨済宗円覚寺派
旧寺格
鎌倉尼五山二位
創建
1285年(弘安8年)
開山
覚山尼(かくさんに) - 北条時宗正室。
開基
北条貞時
本尊
釈迦如来
札所
鎌倉三十三観音32番、東国花の寺百ヶ寺 鎌倉10番
駐車場
駐車場なし
交通機関
北鎌倉駅徒歩3分
住所
神奈川県鎌倉市山ノ内1367
サイト
東慶寺

概要

「縁切寺」「駆け込み寺」として広く知られる臨済宗円覚寺派の名刹。 北条時宗の子の北条貞時が、時宗死去の翌年の1285年、時宗の正室 覚山尼を開山として建立した。 封建時代、離婚できる権利は夫にしか認められていなかったが、縁を切りたい妻は、3年(のち2年)の修行を幕府公認の縁切寺ですれば離婚が認められるという「縁切寺法」という制度があり、当寺に駆け込めば離縁できる女人救済の尼寺であった。 明治4年に縁切りの寺法は廃止となり、尼寺の歴史も明治35年に幕を閉じた。 後醍醐天皇皇女 用堂尼が5世住持として入寺してから「松ヶ岡御所」と称せられ、尼五山第二位の格式の高さを誇った。 江戸時代、豊臣秀頼の娘で徳川秀忠の養外孫にあたる天秀尼が入寺し、徳川家の篤い庇護のもと、鎌倉では鶴岡八幡宮、円覚寺に次ぐ寺領を持ち栄えた。 境内の墓苑には多数の文人らが眠り、鈴木大拙(仏教学者)、西田幾多郎(哲学者)、高見順(作家)らの墓がある。 また、ウメやハナショウブをはじめ「花の寺」としても大変人気があり参拝者で賑わう。

見所

国重要文化財
木造聖観音立像 - 鎌倉後期作。 尼五山の第一位の太平寺(西御門にあった廃寺)の本尊。鎌倉特有の土紋(どもん)装飾が見られる。
初音蒔絵火取母(はつねまきえひとりも) - 室町時代作。アコダ瓜の形をした香炉。
葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱(ぶどうまきえらでんせいへいばこ) - イエズス会の標章が記された南蛮漆芸の遺品。昭和になり寺にもたらされたと考えられる。
東慶寺文書 773通20冊 - 「三下り半」などを含む離縁関係文書。明治5年に廃止されるまで、離婚できる権利は夫にしか認められていなかったが、縁を切りたい妻は、3年(のち2年)の修行を幕府公認の縁切寺ですれば離婚が認められるという「縁切寺法」という制度があった。
(旧仏殿) - かつて境内中央に建っていたが、明治40年に横浜三溪園に移築された。
県文化財
木造水月観音菩薩半跏像 - 鎌倉時代作。岩にもたれて、くつろいだ姿勢をとる珍しい観音像。水月殿に安置。
観光名所
山門 - 茅葺。
仏殿(本堂) - 昭和10年の再建。本尊の釈迦如来坐像を安置。
鐘楼 - 梵鐘は1350年の補陀落寺のもの。東慶寺の梵鐘は、伊豆韮山の本立寺にある。
水月堂 - 水月観音菩薩半跏像を安置。拝観は要予約。
書院 - 関東大震災で倒壊し大正14年再建。
松ヶ岡宝蔵 - 指定文化財や、駈け込みの実例を記録した松ヶ岡日記等の寺宝を展示する宝物館。
庭園 - 四季折々の花々が咲く「花の寺」としても知られる。
茶室「寒雲亭」 - もと裏千家にあった茶室を堀越家の寄進で昭和35年に移築。平成6年に改修。
立礼茶室「白蓮舎」 - 梅、菖蒲、紫陽花の季節には、抹茶がいただける(有料)。
金仏 - 露坐の釈迦牟尼仏。
松ヶ岡文庫 - 禅を世界的に広めた鈴木大拙の収集した仏教書を収める(非公開)。
墓苑 - 覚山尼、用堂尼、天秀尼など歴代尼僧をはじめ、鈴木大拙(仏教学者)、西田幾多郎(哲学者)、岩波茂雄(岩波書店創業者)、出光佐三(出光興産創業者)、高見順(作家)らの墓がある。

行事

5月第3金曜
向陵塚例祀
6月6日
式楽茶会 - 能楽師によるお囃子会。
6月上中旬
岩がらみ特別公開 - 本堂裏の岩肌一面に咲くイワガラミ。
9月十五夜
観月会
10月9日
覚山尼開山忌
10月27日
前田青邨筆塚 筆供養
11月1日
釈宗演 毎歳忌
12月31日
除夜の鐘

歴史

1284年
北条時宗が死去。
1285年
子の北条貞時が、時宗の正室 覚山尼を開山として建立。
1333年
後醍醐天皇皇女で護良親王の姉が、親王の霊を供養するため入寺し、五世 用堂尼となり「松ヶ岡御所」と称せられた。
1615年
大坂落城後、豊臣秀頼の娘 天秀尼は、徳川家康の命により東慶寺に入寺し、「縁切寺法」を確立した。
1634年
旧仏殿が再建された。
江戸時代
鎌倉では鶴岡八幡宮、円覚寺に次ぐ寺領を持ち栄えた。
明治4年
明治政府、寺領の大半を没収し、縁切寺法を禁じた。
明治35年
古川尭道が住職になり開山以来の尼寺が途絶え、臨済宗円覚寺派の禅刹となった。
明治38年
中興の祖とされる釈宗演が建長・円覚寺両派管長から東慶寺に遷住。
大正12年
関東大震災で諸堂倒壊し、元禄以来の書留や縁切文書も多数消滅。
昭和10年
本堂が再建された。
昭和16年
釈宗演弟子の鈴木大拙が 「松ヶ岡文庫」を創立した。
昭和53年
松岡宝蔵を旧方丈跡に新築した。

撮影後記

 鎌倉随一の花暦を誇る寺院で、いつお邪魔しても、なにかしらの花が咲いていて、とても人気がある寺院です。 境内は松ヶ岡谷に切れ込むように奥が深くなっています。 かつては徳川家の篤い庇護の下、建長寺よりも広大な寺領を保持していたといいます。 二階堂は東慶寺の寺領で、鎌倉宮は東慶寺領を明治政府に上知され創建されました。
 ギャラリーにも掲載しましたが、一度たぬきを目撃したことがあります。 アライグマやハクビシンではないと思うのですが、相当苦労して天寿を全うしようとしている容姿でした。 絶滅したとも聞いたことがありますが、鎌倉にもまだ狸がいたのですね。 浄智寺にも紫香楽焼のタヌキの供養塔がありますが、昭和まではまだ生息していて、よく道路に出てきて交通事故で逝ってしまわれたようです。 多摩丘陵の「平成狸合戦ぽんぽこ」を思い出しましたよ。

更新履歴

2012年8月27日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。

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