雪ノ下

源頼朝の雪見

鶴岡八幡宮が鎮座する一帯で、源頼朝が鶴岡二十五坊に雪見に出かけ、山辺の雪を長櫃に詰め、炎暑を消すために山陰に氷室を作らせたのが地名の由来。八幡宮特別保存地区は歴史的風土特別保存地区に指定されている。

雪ノ下

雪ノ下について

基本情報

名称
雪ノ下(ゆきのした)
指定
歴史的風土特別保存地区(八幡宮特別保存地区)
交通機関
鎌倉駅東口から徒歩
所在地
神奈川県鎌倉市雪ノ下

概要

鶴岡八幡宮が鎮座する一帯で、八幡宮特別保存地区は歴史的風土特別保存地区に指定されている。 「吾妻鏡」によれば、源頼朝が鶴岡二十五坊(御谷)にあった静慮坊(現在の鎌倉近代美術館別館付近)に雪見に出かけ、山辺の雪を長櫃に詰め、炎暑を消すために北向かいの山陰に氷室を作らせたとある。 当初は南谷雪屋一帯の狭い範囲であったが、時代が下るにつれて範囲は拡大していった。 また鶴岡八幡宮の社伝によれば、頼朝の食事に雪も供すために、雪屋が今宮(八幡宮の裏)あたりにあったという。

見所

国宝・国重要文化財
鎌倉国宝館 - 鶴岡八幡宮境内にある市立博物館。国宝(絹本淡彩蘭溪道隆像、紙本著色当麻曼荼羅縁起、籬菊螺鈿蒔絵硯箱、鶴岡八幡宮古神宝類、大覚禅師墨蹟)、多数の重要文化財や肉筆浮世絵など約4,800点を収蔵して公開している。
国史跡
鶴岡八幡宮 - 鎌倉幕府の宗社として、武家の精神のよりどころであった。八幡宮を中心として興った質実剛健の気風は、その後、武士道に代表される日本人の精神性の基調となる。例大祭での静の舞と流鏑馬神事や大銀杏が知られる。
二十五坊跡(御谷) - 鶴岡八幡宮裏の「御谷」(おやつ)にある八幡宮に仕える供僧が居住した二十五坊と別当坊の跡地。幕府滅亡後に七坊にまで減少し、江戸時代に十二坊となったが、明治の神仏分離によって廃された。古都保存法発祥の地でもある。
今宮(新宮) - 鶴岡八幡宮の裏山・大臣山の西麓に鎮座している八幡宮境内社。承久の乱で隠岐に流された後鳥羽上皇の怨霊を鎮めるため、1247年(宝治元年)に創建された。
若宮大路 - 由比ヶ浜海岸から鶴岡八幡宮に至る1.5キロの参道。1182年、源頼朝が平安京朱雀大路を参考に鎌倉都市計画の一環として造られた。妻 北条政子の安産祈願も兼ねていたといわれる。現在一般県道として利用されているが、発掘調査によって遺構が地下に良好に残っていることが明らかになった。
巨福呂坂 - 青梅聖天から尾根を越えて山ノ内の円応寺に至る鎌倉七口のひとつ。青梅聖天には庚申塔や道祖神が祀られている。旧道は通行不可で、明治40年に開削された県道の小袋坂切通しが脇を通っている。
県史跡
段葛 - 若宮大路の二ノ鳥居から三ノ鳥居までは、盛土で中央が一段高くされ、置石のかつら石を敷き詰めていたため「段葛」と呼ばれる。遠近法によって実際より長く見えるよう、鶴岡八幡宮側に近づくにつれて道幅が狭くなり、石積も低くなっている。
県文化財
三河屋本店蔵 - 明治33年創業の酒店で、北側後方の蔵は木造平屋。(非公開)
三河屋本店店舗兼住宅 - 昭和2年築。正面に長大な差鴨居を渡し、伝統的な出桁造りの店構え。
市重要建築物
石島邸 - 大正末から昭和初期に建てられた木造2階建住宅。映画を通じて国際交流に尽力した川喜多長政氏の別邸であった。(非公開)
湯浅物産館 - 明治30年、貝細工の製造加工・卸売りの店舗として創業。横浜の貿易商社を模した外観は、木造の建物の前に装飾を施した「看板建築」 と呼ばれるもの。(非公開)
野尻邸(旧大佛次郎茶亭) - 広い庭園と茅葺き屋根、趣きある板塀・ 門が一体となった鎌倉文士・大佛次郎ゆかりの建物。現在は大佛茶廊として使用されている。
観光名所
三の鳥居 - 段葛の北端に立つ朱塗りの鉄筋コンクリート製鳥居。関東大震災で倒壊するまで、一の鳥居と同じ崇源院 江の遺願によって建てられた石造鳥居だった。鎌倉山交差点に建てられている「鎌倉山」の石柱は、倒壊した旧石造鳥居が使用されている。
大倉幕府跡 - 1180年、頼朝が鎌倉入りをし、この地に寝殿造の屋敷(御所)を構えた。1192年に征夷大将軍に就任するまで、侍所・公文所(政所)・問注所などをつくって幕府の基盤を整えた。1225年、宇津宮辻子に幕府を移すまでの45年間、武家政治の中心地となった。
若宮大路幕府跡 - 1236年、4代将軍 藤原頼経が宇津宮辻子から若宮大路に幕府を移し、1333年の幕府滅亡まで政治の中心となった地といわれる。(宇津宮辻子幕府と若宮大路幕府は隣接してあるため、名称が変わったのは、幕府出入り口が若宮大路側に変わっただけで、両者は同じものとする説もある。)
畠山重忠邸跡 - 頼朝の重臣であった畠山重忠の屋敷跡。重忠は武蔵国の武将で、頼朝の挙兵時には平家方に従ったが、頼朝が安房に渡ってから頼朝に従った。頼朝の信頼が厚く、段葛の造営を任されている。
三浦義村邸跡 - 三浦半島を治めた三浦義村の屋敷跡。頼朝が挙兵するとこれに従い、幕府の近くに屋敷を与えられた。
文覚上人屋敷跡 - 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧であった文覚上人の屋敷跡。田楽辻子の入口、滑川に架かる大御堂橋の傍らにあったと伝わる。この屋敷で文覚上人が座禅を組んだことから、滑川は古くは「座禅川」と呼ばれていた。
勝長寿院跡 - 大御堂ヶ谷にある寺院跡。大御堂とも呼ばれ、鶴岡八幡宮、永福寺と共に三大寺院のひとつであった。源頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立された。三河で討たれた義朝の首が当地に葬られ、義朝の墓と伝わる五輪塔があった。現在鎌倉国宝館に移されている。
窟堂(岩窟不動) - 窟小路にある不動明王を祀る岩屋で、頼朝が鎌倉入りする前の1184年からあった。付近には廃寺となった松源寺があり、松源寺によって管理されていた。
鉄ノ井 - 小町通りの最北端にある鎌倉十井のひとつ「鉄ノ井」(くろがねのい)。井戸から鉄の観音像の頭が掘り出されたことによる。廃寺となった新清水寺に安置されていた観音像が、1258年の大火で焼かれて土に埋もれたものと伝わり、現在は東京人形町の大観音寺の本尊となっている。
神奈川県立近代美術館 - 日本最初の公立近代美術館。鶴岡八幡宮境内の本館である鎌倉館、小袋坂の上り口にある常設展を担当する鎌倉別館がある。他に、葉山町には企画展を担当する葉山館もある。
川喜多映画記念館 - 映画の発展に貢献した川喜多長政・かしこ夫妻の旧川喜多宅跡に、鎌倉市における映画文化の発展を期して2010年に開館。 国内外の映画人が訪ね、映画人の交流の場となっていた。
鏑木清方記念美術館 - 近代日本画の巨匠・鏑木清方(かぶらき きよかた)の旧居跡に建てられた。平成6年、鎌倉市に美術作品と土地建物が寄贈され、平成10年に記念美術館として開館。

歴史

1180年
鎌倉入りした源頼朝は、材木座にあった鶴岡若宮を現在地に遷した。
1182年
源頼朝が平安京朱雀大路を参考に鎌倉都市計画の一環として若宮大路が造られ、道幅は30m以上あったといわれる。妻 北条政子の安産祈願も兼ねていたといわれる。段葛は由比ヶ浜まで通じていたといわれる。
1185年
源頼朝が父義朝の菩提を弔うために勝長寿院が建立された。
1191年
源頼朝が鶴岡二十五坊(御谷)に雪見に出かけ、山辺の雪を長櫃に詰め、炎暑を消すために北向かいの山陰に氷室を作らせた。
1236年
4代将軍 藤原頼経が宇津宮辻子から若宮大路に幕府を移した。
1240~1243年
仁治年間、北條泰時が巨福呂坂を改修した。
1330年
雪ノ下谷々の在家人の居住を禁じた。
1417年
鎌倉公方・足利持氏に攻められた反乱軍の足利満隆らは、雪下御坊に立て籠もって戦い自害した。
明治維新
神仏分離によって鶴岡二十五坊が廃された。
明治22年
雪ノ下村が東鎌倉村の大字となった。
明治30年
湯浅物産館が貝細工の製造加工・卸売りの店舗として創業した。
明治33年
三河屋が創業した。
明治40年
小袋坂切通しが開削された。
昭和3年
鎌倉国宝館が設立された。
昭和26年
神奈川県立近代美術館が開館した。
平成10年
鏑木清方記念美術館が開館した。
平成22年
川喜多映画記念館が開館した。

撮影後記

 雪ノ下には雪景色が似合うということで、雪のある風景を多く掲載しましたね。 「吾妻鏡」によれば、頼朝が雪見に出かけた1191年の2月17日は、五寸(約18センチ)ほどの積雪であったと記述されています。 一説には、この地域には植物のユキノシタが多く生育しているから「雪の下」だとも。

更新履歴

2014年10月20日
初版をアップロードしました。

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