本覚寺

東身延

1436年、日出により創建された日蓮宗本山。第二世の日朝が、身延山久遠寺に安置されていた日蓮の遺骨を分骨したため「東身延」とも称される。正月の初えびすと本えびすには、商売繁盛の拝観者で賑わいをみせる。

本覚寺

本覚寺について

撮影後記

 本覚寺(ほんがくじ)は、鎌倉の町が歴史の表舞台から消える三年前の1436年に創建された、鎌倉では比較的新しいお寺です。 鎌倉駅に近いため、毎朝、スーツを着た会社員や制服姿の学生さんが足早に境内を通り抜けていきます。 大町などに住んでいる方の通勤ルートとしても開放され、地域住民に広く親しまれています。 ちなみに、若宮大路に出入口が通じていないのは、昔は若宮大路に向けて入口を作ってはいけない規則があったためなんだとか。
 第二世の日朝は優れた住職で、身延山久遠寺の貫首にまで上り詰めた人でした。 そういったこともあり、身延山から日蓮の遺骨を持ち帰ることができ、いつも本堂前には誇らしげに「身延山東身延 本山本覺寺」という立て看板が置かれています。 初代が駿河国三島の人で、二世の日朝が伊豆国宇佐美の出身で、二人は師弟関係にありました。 特に日朝は寺では尊称され、眼病救護についての縁起もあることから、「日朝さま」と親しまれています。 以前はメグスリノキを原料にした護符が売られていたそうですが、現在は薬事法承認の点眼薬になったそうです。

概要・歴史

1436年創建の山号を妙厳山(みょうごんざん)とする日蓮宗本山。 開山は日出(にっしゅつ)、本尊は釈迦三尊。 身延山久遠寺に安置されている日蓮の遺骨を分骨しているため「東身延」とも称される。 現在の仁王門の場所には、天台宗系の夷堂があった。 ここは鎌倉幕府の裏鬼門にあたり、源頼朝が守護神として夷神を祀ったと伝わる。 日蓮が佐渡配流されて三年後の1274年、松葉ヶ谷の庵が焼かれたため、身延山に隠遁するまで、この夷堂に滞在し辻説法の拠点とした。 1333年、新田義貞の鎌倉攻めで夷堂が焼失。 その後、駿河国の三島出身の日出が夷堂跡に住み辻説法をしたが、鎌倉公方足利持氏に捕らえられた。 しかし夷神のお告げにより許され、持氏は日出が夷堂のある場所に新たに寺院を創建するのを援助したと伝わる。 1436年、ここに夷堂が天台宗から日蓮宗に改められ本覚寺が創建された。 第2世の日朝は、身延山への参詣が困難な老人や女性のために、身延山より日蓮の遺骨を分骨して本覚寺に納めた。 昭和49年、本山(由緒寺院)に昇格。 昭和56年、夷堂が復元された。 毎年正月、初えびすと本えびすには商売繁盛の拝観者で賑わいをみせ、福娘がお神酒をふるまう姿は鎌倉の風物詩となっている。

住所: 神奈川県 鎌倉市小町1丁目12-12

更新履歴

2011年9月18日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。

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