西鎌倉地域

字腰越・津・津西・西鎌倉

腰越地域北中部に広がる丘陵地で、字腰越・津・津西・西鎌倉の地区に相当する。江戸時代、土豪の代官とその縁者が持つ土地は津村、それ以外は腰越村とされた経緯で、腰越と津の境界がモザイク状に形成されている。

西鎌倉

西鎌倉について

基本情報

名称
西鎌倉(にしかまくら) - 字腰越・津・津西・西鎌倉の地域。
交通機関
湘南モノレール西鎌倉駅、片瀬山駅から徒歩
所在地
神奈川県鎌倉市津・津西・西鎌倉・字腰越

概要

腰越地域の北中部に広がる丘陵地域で、字腰越・津・津西・西鎌倉地区に相当する。 江戸時代、土豪の島村氏が代官として代わりに取り仕切り、苛烈な徴税を課していたといわれる。 そのため村の分離を幕府に訴え、幕府は腰越を村として扱う事を決め、島村氏とその縁者が持つ土地は津村、それ以外の者が持つ土地は腰越村とされた。 そのような経緯で、現在腰越と津の境界がモザイク状に形成されている。 戦後の宅地造成で、昭和40年代に住居表示変更が行われ、西鎌倉と津西の新町名が生まれている。 さらに昭和60年には、鎌倉山の新町名が生まれた。

見所

観光名所
龍口明神社 - 津の鎮守。552年、江ノ島弁財天の霊感に降伏した深沢に住む五頭龍を祀ったのが始まりで、鎌倉市内随一の古社とされる。江の島弁財天とは夫婦の関係にある。旧鎮座地は龍口寺西隣で、昭和53年に現在地へ遷座した。
御所五郎丸屋敷跡 - 曽我兄弟の仇討の際、弟の五郎時致を組み伏せた御家人として知られる。御所五郎丸公園が屋敷の跡地とされ、庭石と伝えられる石がある。この一帯は御所ガ谷とか御所ガ丘と呼ばれる。
広町緑地 - 約48haの鎌倉の三大緑地のひとつ。複雑に入り組む谷戸と急斜地で形成され、わき水が流れ込む多様な水辺環境では、質の高い生態系が維持されている。平成15年に「鎌倉広町の森市民の会(協議会)」が設立され、次世代に貴重な遺産を引き継ぐべく活動を行っている。

歴史

江戸時代初期
江戸幕府の直轄領で、土豪の島村氏が代官として代わりに取り仕切り、苛烈な徴税を課していたといわれる。
江戸時代初期
江戸幕府の直轄領で、土豪の島村氏が代官として代わりに取り仕切り、苛烈な徴税を課していたといわれる。
1666年
村の分離を幕府に訴え、幕府は腰越を村として扱う事を決め、島村氏とその縁者が持つ土地は津村、それ以外の者が持つ土地は腰越村とされた。
1727年
腰越村と龍口寺との間であった争いの際に、片瀬村との境界が確定した。
1768年
難破船の船板が腰越村に流れ着き、これを片瀬村の者が引き揚げたことが発端となり、腰越村と片瀬村との間で境界紛争が起こった。
1776年
境界紛争の判決が確定し、龍口寺を片瀬村側とするような境界が新たに定められ、腰越村は沖合い漁を、片瀬村は地引き網漁を互いに入会として行ってきていたことを認定し、今後もこの慣例どおりとすることと言い渡された。
明治22年
町村制施行で津村と合併して鎌倉郡腰越津村となった。
昭和6年
町制施行で鎌倉郡腰越町になった。
昭和14年
鎌倉町と合併して、腰越と津がそれぞれ鎌倉市の大字となった。
昭和43年
住居表示変更で西鎌倉の新町名が生まれた。
昭和45年
住居表示変更で津西の新町名が生まれた。
昭和53年
龍口明神社が龍の口から現在地に遷宮された。
昭和60年
住居表示変更で鎌倉山の新町名が生まれた。

撮影後記

 腰越地域で腰越一丁目~五丁目を除いたエリアを「西鎌倉」として、湘南モノレール沿線カテゴリで紹介しています。 沿岸の腰越一丁目~五丁目は、江ノ電沿線カテゴリで「腰越」として公開しております。

更新履歴

2014年11月1日
初版をアップロードしました。

西鎌倉地域紀行のコメント

コメントを書く

お名前 ※
ホームページ
コメント本文 ※
認証キー ※ (半角)
Captcha Code

フェイスブックを開始しました。上のタブからどうぞ。

おすすめギャラリー

京都

京都紀行

作品追加中
さくら

さくら紀行

作品追加中
美瑛・富良野