由比ガ浜地域

日本有数の海水浴場

若宮大路の南半分一帯で、特に相模湾に面した由比ヶ浜海岸は、日本有数の海水浴場として有名である。鎌倉時代には、畠山重忠の乱、和田合戦、新田義貞の鎌倉攻めの古戦場となり、多くの人骨が出土している。

由比ヶ浜

由比ガ浜について

基本情報

名称
由比ガ浜(ゆいがはま)、笹目町(ささめまち)
指定
国史跡(若宮大路)
交通機関
江ノ電和田塚駅・由比ヶ浜駅から徒歩
所在地
神奈川県鎌倉市由比ヶ浜・笹目町
サイト
由比ガ浜.com 由比ガ浜中央商店街

概要

若宮大路の下馬から南、江ノ電の和田塚駅・由比ヶ浜駅周辺の一帯で、特に相模湾に面した由比ヶ浜海岸は、日本有数の海水浴場として有名である。 由比ヶ浜海岸は、滑川と稲瀬川の間の砂浜が続く海岸で、年中多くのサーファーで賑わう。 鎌倉時代は小笠懸などの武芸鍛錬の場所であった。 また、畠山重忠の乱、和田義盛の変、新田義貞の鎌倉攻めの古戦場跡で、多くの人骨が出土している。 明治時代、ドイツのベルツ博士や長與專齋医学博士が、海水浴場の最適地と紹介してから、由比ヶ浜が全国に知れ渡るようになり、横須賀線が開通すると、保養地、高級別荘地、海水浴場として大変賑わうようになった。 湘南有料道路(現国道134号)が開通すると、かつての砂丘と松林が失われ、現在も砂浜の縮小が続いている。 笹目町は鎌倉七谷のひとつで、古来からの地名。 4代執権北条径時が笹目ヶ谷に別邸を構えたといわれる。

見所

国史跡
若宮大路 - 由比ヶ浜海岸から鶴岡八幡宮に至る1.5キロの参道。1182年、源頼朝が平安京朱雀大路を参考に鎌倉都市計画の一環として造られた。妻 北条政子の安産祈願も兼ねていたといわれる。現在一般県道として利用されているが、発掘調査によって遺構が地下に良好に残っていることが明らかになった。
県文化財
鶴岡八幡宮大鳥居(一の鳥居) - 若宮大路南端付近の海岸砂丘地帯に立つ総高8.5mの石造大鳥居。中世には「浜大鳥居(はまのおおとりい)」と呼ばれ、商工業の拠点である海岸地帯「浜」の象徴であった。大鳥居は代々武家によって維持されてきた。戦国時代の鳥居は、現在の鳥居より北に鎮座し、木造であった。現在の大鳥居は1668年、2代将軍 徳川秀忠夫人 崇源院(江)の遺願によって石造へと変えられ建立されたものである。
市重要建築物
日本基督教団鎌倉教会会堂 - 大正15年、ハリス記念鎌倉メソジスト教会会堂として建立。トレーサリーを伴った大きな尖頭アーチ窓など初期ゴシック的スタイルを持ち、戦前のプロテスタント教会会堂の代表例。(非公開)
日本基督教団鎌倉教会付属 ハリス記念鎌倉幼稚園 - 明治43年創立の市内で最も歴史のある幼稚園。現園舎は、関東大震災で倒壊後、大正14年に建てられた。珍しい「梅鉢型園舎」で、中央に遊戯室、それを囲むように舞台と教室が配されている。(非公開)
篠田邸(旧村田邸) - 鎌倉のハーフティンバースタイルの住宅を代表するもの。昭和8年、横浜興信銀行(現横浜銀行)の村田繁太邸増築部として建築され、昭和36年、国文学者の篠田太郎氏の所有となった。(非公開)
かいひん荘 鎌倉 - 大正13年、富士製紙社長の村田一郎邸として建てられ、現在は旅館として活用されている。
寸松堂 - 昭和11年、鎌倉彫の彫師佐藤宗岳氏の店舗併用住宅として建てられた。1階の店舗部分に近代洋風建築技術が見られるが、寺院建築と城郭建築が混在したような建築様式である。
観光名所
六地蔵 - この付近は鎌倉時代の刑場跡で、近世までは飢渇畠(けかちばたけ)と呼ばれる荒地で、罪人の霊を弔うために建立された。
和田塚 - 和田合戦で敗れた和田義盛一族を葬った所と伝えられるが、実際はこのあたりにあった向原古墳群の円墳のひとつと考えられている。明治25年の道路工事の際に多くの人骨や埴輪や土器が発掘された。
塔ノ辻跡 - 由比の長者といわれた染屋時忠の愛娘が鷲にさらわれ、散らばっている肉片や骨を見つけて供養した所が「塔ノ辻」といわれる。鎌倉に「塔ノ辻」と呼ばれる場所は7箇所あったが、笹目のこの場所には唯一の遺構である石塔がある。
琵琶橋 - 「鎌倉十橋」のひとつ。一説には、一の鳥居から二の鳥居の間が「琵琶小路」と呼ばれていたことによる。(現在の琵琶小路とは違う)
畠山重保の墓(六郎様) - 畠山重忠の乱で由比ヶ浜で討たれた畠山六郎重保(重忠の嫡男)の墓と伝えられる明徳四年(1393年)の銘のある宝篋印塔。畠山重保が喘息持ちだったことから「六郎様」と呼ばれ、願をかけると咳の病気が治るといわれる。
鎌倉彫工芸館 - 昭和37年、伝統工芸である鎌倉彫の振興を図るために開館した。ギャラリーの見学や材料道具の販売も行っている。
鎌倉海浜公園 - 昭和63年に開園した公園。「タンコロ」と称され親しまれてきた100型の江ノ電車両が展示保存されている。
鎌倉海浜ホテル跡 - 前身は明治20年に開設された鎌倉海浜院サナトリウム。木造二階建ての洋式建築であったが、昭和20年に失火によって全焼。
由比ヶ浜海岸 - 滑川と稲瀬川の間の砂浜が続く海岸で、海水浴や多くのサーファーで賑わう。鎌倉時代は小笠懸などの武芸鍛錬の場所であった。また、畠山重忠の乱、和田義盛の変、新田義貞の鎌倉攻めの古戦場跡で、多くの人骨が出土する。

歴史

1182年
源頼朝が、平安京朱雀大路を参考に鎌倉都市計画の一環として造られ、道幅は30m以上あったといわれる。妻 北条政子の安産祈願も兼ねていたといわれる。段葛は由比ヶ浜まで通じていたといわれる。
1186年
静御前が、源義経の男児を出生するが、男子が生まれた場合は殺すという頼朝の命により由比ヶ浜に遺棄されたと伝わる。
鎌倉時代
由比ヶ浜海岸は前浜とも呼ばれ、小笠懸などの武芸鍛錬の場所であったと伝わる。
1205年
畠山重忠の乱で嫡男の重保が北条氏によって由比ヶ浜で討たれた。
1213年
有力御家人和田義盛の反乱である和田合戦で、由比ヶ浜が合戦場となり、義盛がこの地で討たれた。
1246年
4代執権北条径時が笹目ヶ谷に別邸を構え、佐々目山の麓に葬られた。
1333年
由比ヶ浜が新田義貞の鎌倉攻めの古戦場となった。
中世
若宮大路の木造鳥居は、鎌倉を拝領した武家によって維持された。
1668年
八幡宮修理の一環として、2代将軍 徳川秀忠夫人 崇源院(江)の遺願によって石造へと変えられ、4代将軍 徳川家綱によって建立された。
大正12年
関東大震災で、三つの鳥居すべてが倒壊した。
明治13年
ドイツのベルツ博士が由比ヶ浜を訪れ、鎌倉を日本で最も良い保養地と紹介した。
明治17年
長與專齋医学博士が、海水浴場の最適地と紹介してから、由比ヶ浜が全国に知れ渡るようになった。
明治22年
横須賀線が開通すると、保養地、高級別荘地、海水浴場として大変賑わうようになった。
昭和9年
鎌倉在住作家の久米正雄や大仏次郎らが中心となり、夏の名物「鎌倉カーニバル」が由比ヶ浜を舞台にはじまった。
昭和12年
一の鳥居が復元された。
昭和24年
夏の風物詩「鎌倉花火大会」がはじまった。
昭和31年
湘南有料道路(現国道134号)が開通し、砂丘と松林が失われた。
昭和37年
鎌倉カーニバルが狭い道路事情から中止になった。
昭和50年
湘南道路の鎌倉区間(現国道134号)が無料開放された。

撮影後記

 ザ・湘南といったイメージで開放的な由比ヶ浜海岸。 昭和28年、鎌倉簡易裁判所の用地を発掘したところ、500躰以上もの老若男女の人骨が出土しました。 東大学理学部人類学教室の調査によれば、鎌倉時代の人骨ということが判明し、1333年の鎌倉攻めによるものと考えられていました。 現在でも、工事などで地中を掘り起こすと人骨が出土することがあるそうです。 材木座でも1000躰近い人骨が出土したことから、当時の鎌倉の人口比から新田義貞の鎌倉攻めでの鎌倉の地獄絵図が目に浮かぶようですが、最近の研究では様相が異なっているようです。 名大の年代測定総合研究センターらの文献によれば、由比ヶ浜は鎌倉時代以前から死者を捨てる空間のような性格も併せ持っていたと考えられると結論付けています。

更新履歴

2013年1月24日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。
2014年10月28日
ギャラリーに作品を1点追加しました。
2014年11月20日
ギャラリーに作品を4点追加しました。

由比ガ浜地域紀行のコメント

コメント欄

こんにちは、
初めまして私はアルボンです。フランス人です。
六年ぐらい日本に住んでいます(三年関西、三年関東)。そのときずっとPhotograph.proの写真をみました。大好きです。その日鎌倉で雪が降りましたとき私も海岸にいました。今度もし時間があったら一緒に会いませんか?メールはmetsuaku@yahoo.co.jp

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