手広

手拾い伝説

深沢地域西部のエリアである。戦で大将の切り落とされた手を家臣が拾い、それを土地の寺に納めたことから「手拾」となり、それが転訛したという伝説がある。隣接する笛田村とは用水の確保をめぐり訴訟を繰り返した。

手広

手広について

基本情報

名称
手広(てびろ)
交通機関
藤沢駅からバス利用、湘南モノレール湘南深沢駅・西鎌倉駅から徒歩
所在地
神奈川県鎌倉市手広

概要

鎌倉市西部のエリアで藤沢市川名と接している。 南部は丘陵地、北部は柏尾川につづく平地が広がっている。 地名の由来については未詳だが、戦で大将の切り落とされた手を家臣が拾い、それを土地の寺に納めたことから「手拾」となり、それが転訛したという伝説がある。 隣接する笛田村から農業用水を流入していたため、江戸時代から確保をめぐりたびたび訴訟を繰り返した。 明治27年に笛田村と共同でため池(夫婦池)をつくり共同管理するという結審で決着をみた。 南部の丘陵地帯は、戦後の宅地造営が進み、「鎌倉山」と呼ばれるようになった。

見所

市重要建築物
成瀬家住宅 - 旧江の島道沿いに残る茅葺き屋根の平屋建ての江戸末期から明治初期の古民家。道路と接する部分には鎌倉石の石積みと高垣が残り、鎌倉地域の近世農家の典型例として貴重である。現在「お食事処なるせ」となっている。
観光名所
青蓮寺 - 高野山真言宗の寺院。秘仏本尊の弘法大師像は、関節が鎖で動くようになっているために、「鎖大師」と通称され、国の重要文化財に指定されている。鎖大師は年に五回ほど開帳され、多くの参拝者で賑わう。
熊野神社 - 手広の鎮守。かつて青蓮寺塔頭の宝積院が別当し、本地仏は如意輪観音だったという。宝積院が廃寺となり由緒の資料が散逸してしまった。1月28日の例祭に拝殿の鰐口を鳴らすと「どんどん」と音がして神様が出てくる伝説がある。境内の大公孫樹は市指定保存樹木。
三十番神宮(稲荷神社) - 地元では「番神さま」と呼ばれる。もと笛田の仏行寺が管理していた日蓮宗寺院で、神仏分離で稲荷神社と改名した。津村の小田原北条氏家臣の島村采女の隠居所の守り本尊として建立された。厨子内に一ヶ月三十日間、交替で守る30体の三十番神像があり、10月の例祭では仏行寺住職が経をあげる。
谷戸坂の切通 - 手広村と腰越村を結んでいた旧江の島道で、幕末に勾配をゆるやかにするため手広の村人が切り下げ工事を行った。10mほどの短い切通しは、近年まで生活道として利用されていた。東側にもうひとつの古道があり、昭和になって県道が開通するまで使われていた。

歴史

縄文時代
八反目遺跡(現在の深沢高校敷地)から出土品が発掘され、縄文時代から人が住んでいた。
中世
津村郷から分村した。
1457~1461年
青蓮寺が中興された。
江戸時代
旗本の大岡氏の知行地、並びに青蓮寺領となった。
幕末
川越藩領、彦根藩領となった。
明治22年
手広村が鎌倉郡深沢村の大字となった。
明治27年
手広村と笛田村が共同でため池(夫婦池)をつくり共同管理することとなった。
昭和23年
鎌倉郡深沢村が鎌倉市へ編入された。
昭和60年
住居表示変更で一部が鎌倉山の新町名となった。

撮影後記

 手広熊野神社の拝殿の鰐口を鳴らすと、「ドンドン」と音がして神様が出てくる伝承があるそうです。 その昔、社殿をねぐらとしていた貂(てん)が、鰐口を鳴らすと驚いて飛び降りて音をたてたので、このような伝説となったのだそうです。

更新履歴

2015年10月17日
初版をアップロードしました。

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