扇ガ谷

扇谷上杉氏

鎌倉駅の北西一帯で、鎌倉らしい景観を保つ地域である。室町時代、管領 上杉定正が「扇谷殿」と称され、「扇ヶ谷」と呼ばれるようになっていった。また、源頼義、源義朝が屋敷を構えた源氏家父祖伝来の地でもある。

扇ガ谷

扇ガ谷について

基本情報

名称
扇ガ谷(おうぎがやつ)
指定
歴史的風土特別保存地区(寿福寺特別保存地区)
交通機関
鎌倉駅西口から徒歩
所在地
神奈川県鎌倉市扇ガ谷

概要

鎌倉駅の北西地域で、鎌倉時代には「亀谷」と呼ばれていた。 鎌倉時代後期の扇谷の範囲は、海蔵寺から英勝寺の範囲であったといわれ、諸説はあるが、谷戸地形が扇の形をしていることから名付けられたとも伝わる。 室町時代、代々関東管領を継いだ扇谷上杉氏の屋敷があり、管領 上杉定正が「扇谷殿」と称され、亀ヶ谷一帯が「扇ヶ谷」と呼ばれるようになっていった。 もともとこの地は、源氏家父祖伝来の土地で、相模守であった源頼義がこの辺りに屋敷を構えたことにはじまる。 その後、源義朝が東国に下向し、高祖父の頼義以来ゆかりのあるこの地に館を構え、東国武士団を統率する地位を確立した。 そして、鎌倉入りした頼朝は、父義朝の屋敷があったこの地に館(幕府)を構えようとしたが、すでに義朝忠臣の岡崎義実が堂宇を建て菩提を弔っていたことや、手狭だったこともあり、大倉(蔵)に館を建てることとなった。 国史跡の寿福寺や浄光明寺をはじめ、英勝寺、海蔵寺といった古都鎌倉らしい浄刹が数多く残る魅力溢れる地域である。

見所

国史跡
寿福寺 - 臨済宗建長寺派の禅刹で、北条政子が栄西を住職に招聘し創建された。鎌倉五山第三位に列格され、多くの名僧が入寺した。源氏家父祖伝来の地で、源頼義、源義朝が屋敷を構え、源頼朝は、父 義朝の屋敷があったこの地に館(幕府)を構えようとした。
浄光明寺 - 1251年、六代執権・北条長時が真阿を迎え創建した真言宗の古刹で、北条氏や足利家とゆかりが深い。足利尊氏は当寺に籠り後醍醐天皇に対し挙兵する覚悟を固めたとも云われる。秋の萩など花暦の豊富な寺院でもある。
冷泉為相墓 - 浄光明寺境内の阿弥陀堂裏山平場にある南北朝時代の様式を良く示す宝篋印塔。
仮粧坂 - 扇ガ谷より源氏山を越えて梶原へと抜けるための切通しで、「鎌倉七口」のひとつ。武蔵へと続く鎌倉街道上道口にあたり、防衛上の要衝であった。新田義貞の鎌倉攻めの際には、幕府軍との大激戦地となったと伝わる。
亀ヶ谷坂 - 扇ガ谷と山ノ内を結ぶ鎌倉七口(鎌倉七切通)のひとつで、鎌倉から武蔵へ通じる鎌倉街道中ノ道の基点であった。建長寺に住んでいた亀が、あまりの急坂のため引き返したという逸話も残り、「亀返坂」とも称された。
市史跡
多宝寺址やぐら群 - 浄光明寺裏山の冷泉為助の墓の先(妙伝寺の裏山)にあり、鎌倉まつり期間に公開される。鎌倉後期から室町初期にかけての多宝寺僧侶の墓。
大伴神主家墓所 - 浄光明寺阿弥陀堂の裏にあり、鶴岡八幡宮の社家であった大伴家の墓塔が並べられている。大伴家は25代にわたって神主を勤めてきたが、明治の神仏分離によって職を離れた。
相馬師常墓やぐら - やぐら内の宝筺印塔は、千葉介常胤の第二子である相馬師常の墓である。師常は相馬氏を継ぎ、巽荒神社の辺に邸宅を有していた。
市重要建築物
高野邸 - 昭和8年に建てられた木造2階建ての洋小屋組建築。(非公開)
観光名所
英勝寺 - 浄土宗寺院で鎌倉に残る唯一の尼寺である。太田道灌の屋敷跡に、水戸家初代・徳川頼房の養母で徳川家康に仕えた英勝院(お勝局)を開基とし1636年創建。代々水戸家の姫君を門主に迎え、「水戸御殿」とも称された。
海蔵寺 - ※ 海蔵寺紀行アップ時に記入します。
薬王寺 - 1293年創建の日蓮宗寺院。もとは真言宗に属していたが、日像が時の住職と論難し改修した。江戸時代、徳川家との関係が深く七堂伽藍の大寺院であったが、廃仏毀釈の流れで荒廃し、大正以降に復興された。
妙傳寺 - 日蓮宗寺院で、昭和49年に東京から移転した。この地は、忍性によって開かれた多宝寺があったといわれ、裏山には、多宝寺跡のやぐら群や大型五輪塔があり、国の重要文化財に指定されている。
多宝寺跡やぐら群 - 浄光明寺裏山の冷泉為助の墓の先(妙伝寺の裏山)にあり、鎌倉まつり期間に公開される。鎌倉後期から室町初期にかけての多宝寺僧侶の墓。
八坂大神 - 扇ガ谷の鎮守。「相馬天王」とも呼ばれ、千葉常胤の子 相馬師常が、1192年に自邸の守護神として勧請したのが始まりとされる。後に浄光明寺裏山に遷座し、寿福寺の本堂脇を経て現在地に遷された。銭洗弁財天宇賀福神社(銭洗い弁天)は、当社の末社であった。
巽神社 - 平安時代初頭、坂上田村麻呂が葛原岡に勧請したのが起源とも伝わる。源頼義が社殿を改修し、壽福寺の鎮守として崇敬され、巽(南東)の方角にあることから命名された。
刃稲荷 - 正宗稲荷とも。鎌倉時代の刀工 五郎入道正宗(岡崎正宗)の屋敷に祀られていた稲荷社。江戸時代に松尾滝右衛門が再興したといわれる。付近の民家には「正宗ノ井」がある。
岩船地蔵堂 - 源頼朝の娘 大姫の守り本尊と伝わる。木造地蔵の床下に船形光背をもつ石造地蔵が安置され、岩船地蔵の由来となっている。現在は木造地蔵尊を前に、石造地蔵尊をその奥に安置している。海蔵寺の管理。
扇ノ井 - 個人宅に残る扇形をした井戸で、「鎌倉十井」のひとつ。扇ガ谷の語源とも。静御前が舞扇を納めたという伝説がある。
泉ノ井 - 妙伝寺近くにある「鎌倉十井」のひとつ。このあたりは泉ヶ谷とも呼ばれる。
底脱ノ井 - 海蔵寺門前にある「鎌倉十井」のひとつ。安達泰盛の娘 千代能が水を汲んだところ、桶の底が抜け、「千代能が いだく桶の 底抜けて 水たまらねば 月もやどらじ」と詠んだことから。室町時代、扇谷上杉家の尼が「賤の女が いただく桶の 底ぬけて ひた身にかかる 有明の月」と詠んだ伝えも残る。
勝ノ橋 - 寿福寺門前にあった橋で「鎌倉十橋」のひとつ。英勝寺を開いたお勝の方にちなみ命名されたという。庚申塔が残っている。
扇ガ谷上杉管領屋敷跡 - 室町時代に代々関東管領を継いだ扇谷上杉氏の屋敷跡といわれる。扇谷殿と呼称され、この辺りが「扇ヶ谷」と呼ばれるようになった。
景清牢跡 - 源頼朝暗殺を失敗した藤原景清(平景清)が幽閉されていたと伝わる。通説では、八田知家の邸で絶食し果てたとされる。
源氏山公園 - 源氏山一帯に広がる自然公園で、公園のシンボル「源頼朝像」が建っている。八幡太郎義家が後三年の役で奥羽に出陣する折、この山上に源氏の白旗を立て戦勝を祈ったという伝説から「旗立山」と称されたとも伝わる。

歴史

平安時代
検非違使だった桓武平氏 平直方の屋敷があったといわれる。
1039年頃
相模守であった源頼義が直方の娘婿となり、源義家(八幡太郎)が生まれると屋敷を頼義に譲ったといわれる。
平安時代末
河内源氏は一族内紛によって凋落していたため、源義朝が東国に下向し、東国武士団を統率する地位を確立し、高祖父の頼義以来ゆかりのあるこの辺りに館を構えた。ここに河内源氏の基盤が東国に確立し、中央進出への足掛かりを掴んだ。
1180年
鎌倉入りした頼朝は、源氏家父祖伝来のこの地に館(幕府)を構えようとしたが、すでに義朝忠臣の岡崎義実が堂宇を建て菩提を弔っていたことや、手狭だったこともあり、大倉(蔵)に館を建てた。
鎌倉時代
亀谷(かめがやつ)と呼ばれていた。
1192年
千葉常胤の子 相馬師常が、自邸の守護神として八坂大神を勧請した。
1200年
頼朝没後、夫人の北条政子は夫の遺志を継ぎ、栄西を住職に招聘し、2代将軍頼家を開基として寿福寺を創建した。
1251年
6代執権 北条長時が、浄光明寺を創建した。
1293年
梅嶺寺もしくは梅立寺(後の薬王寺)が日蓮宗に改宗した。
1333年
新田義貞の鎌倉攻め際、義貞率いる主力軍と金沢時盛率いる幕府軍が、化粧坂で戦ったと伝わる。
1335年
足利尊氏は後醍醐天皇に逆らって鎌倉に下り中先代の乱の平定したため、謀反の意思がないことを示すため浄光明寺に謹慎していたが、弟の直義に説かれ挙兵する覚悟を固めたとも云われる。
室町時代
この地に屋敷を構えていた関東管領 上杉定正が「扇谷殿」と称され、この辺りを「扇ヶ谷」と呼ばれるようになった。
1636年
太田道灌の屋敷跡といわれる地に、お勝局を開基とし、英勝寺が創建された。
明治22年
扇ガ谷村が東鎌倉村の大字となった。
昭和41年
源氏山公園が開園した。
昭和49年
妙傳寺が、東京文京区白山から現在地に移転した。

撮影後記

 江戸時代の鎌倉七谷のひとつだったそうで、扇川を葉の主脈とすると、無数の葉脈のような支谷が伸びています。 インターネットの航空写真で見るとよくわかります。 諸説はありますが、谷戸地形が扇の形をしていることから「扇ヶ谷」と名付けられたとも云われ、航空写真で見ると、そう見えなくもないですね。

更新履歴

2012年8月18日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。
2014年11月18日
ギャラリーに作品を6点追加しました。
2014年11月20日
ギャラリーに作品を1点追加しました。

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