長谷

長い歴史と人気観光地

鎌倉大仏と長谷寺を擁す、鎌倉を代表する観光エリア。鎌倉で最も早くから栄えていた地域で、710年草創の鎌倉一の古社である甘縄神明宮が鎮座する。近世になると、大仏と長谷観音の参拝者で賑わいを見せるようになる。

長谷

長谷について

基本情報

名称
長谷(はせ)
指定
国史跡(鎌倉大仏殿跡)
駐車場
有料駐車場あり - コインパーキング、長谷寺駐車場等利用。
交通機関
江ノ電長谷駅・由比ヶ浜駅下車
所在地
神奈川県鎌倉市長谷

概要

鎌倉大仏と長谷寺を擁す、鎌倉を代表する観光エリアのひとつである。 名称の由来は、長谷観音の門前町として、深沢村と甘縄村の土地の一部を併せた長谷村による。 この地は、藤原鎌足の子孫と称し、坂東八州の総追捕使で、「由比の長者」と呼ばれていたとも伝わる染屋時忠が屋敷を構え、鎌倉でも最も早くから栄えていた場所である。 長谷の鎮守である甘縄神明宮は、染屋時忠に建てられたといわれ、710年草創の鎌倉一の古社と伝わる。 鎌倉時代には、安達盛長が屋敷を構え、忍性によって施薬院が営まれ、鎌倉大仏が建立された。 近世になると、江の島参拝の経路でもあった長谷界隈は、鎌倉大仏と坂東観音霊場の札所である長谷観音への参拝者で賑わった。 近代、江ノ電の開通や大仏坂トンネルの開削で、鎌倉や藤沢からのアクセスが至便となり、より一層の観光客で賑わいを見せるようになった。

見所

国史跡
鎌倉大仏殿跡 - ※ 高徳院紀行アップ時に記入します。
大仏切通 - ※ 大仏切通紀行アップ時に記入します。
市重要建築物
鎌倉文学館 - 明治23年、旧加賀藩前田家の別邸として建てられ、昭和58年に前田家より市に寄贈され「鎌倉文学館」として公開された。鎌倉文士の著書・原稿・愛用品などが展示されている。春と秋は薔薇の名所としても知られる。
長谷子ども会館(旧諸戸邸) - バルコニーにギリシア建築様式を取り入れた木造二階建て洋風トラス小屋組で、明治期の造形意匠の密度においては、県内最高のものといわれる。明治41年に福島浪蔵邸として建てられ、大正10年に諸戸清六氏の所有となり、昭和55年に市に寄贈された。(非公開)
加賀谷邸 - 長谷子ども会館を参考に設計されたと考えられている木造2階建ての洋館。ひときわ目を引く背の高い洋館部と趣のある和風の主屋は、周辺のランドマークともなっている。(非公開)
白日堂 - 昭和15年に建てられた戦前の鎌倉彫の工房兼住宅を代表する貴重な遺構。城郭と寺院風を加味した重厚な意匠に、鉄平石張りの腰壁のショーウィンドーという近代的な要素が合わさっている。(非公開)
旅館対僊閣(たいせんかく) - 昭和2年に建てられた長谷寺参道に構える現役老舗旅館。2階部分に高欄や欄間窓が見られ、戦前の和風旅館の面影を留める貴重な遺構。(非公開)
のり真安齋商店 - 安齊商店は大正2年創業の老舗乾物屋。現在の建物は大正13年の建築。石造の基礎や土間、揚戸など、商家の面影を留める貴重な遺構。店舗の奥に、昭和13年に建てられた倉庫兼住宅も建っている。(非公開)
観光名所
長谷寺 - 浄土宗系単立寺院で、長谷観音として親しまれている。本尊である日本最大級の十一面観音像は、奈良の長谷寺と同じ楠の霊木から彫られたと伝わる。花暦が鎌倉一豊富な寺院で、初夏のあじさいが特に有名である。
光則寺 - 1274年建立の日蓮宗寺院。開基は北条時頼の家臣・宿屋光則で、開山は、日蓮聖人の弟子・日朗上人である。カイドウ、ヤマアジサイをはじめ、境内所狭しと野草茶花が植えられ、さながら「寺院植物園」のようである。
甘縄神明神社 - 「甘縄神明宮」として親しまれる長谷の鎮守。710年草創の鎌倉一の古社と伝わる。相模守であった源頼義が、当社に祈願し八幡太郎義家授かったことから、源氏の信仰を集め、頼朝をはじめ、政子、実朝なども参拝した。
収玄寺 - 日蓮宗寺院。この地は、北条義時の孫で日蓮の有力檀越であった四条金吾の屋敷であった。江戸時代、その屋敷跡に創建された。境内には所狭しと四季の花木野草が植えられ、花の寺として親しまれている。
染屋時忠屋敷跡 - 染屋太郎時忠は、藤原鎌足の子孫と称し、関東八州の総追捕使で、「由比の長者」と呼ばれていたとも伝わる。鎌倉の各地には由比の長者にまつわる伝説が多数語り継がれている。伊勢原の「大山寺縁起」によれば、奈良東大寺を開いた良弁の父ともいわれる。
主馬盛久頸座 - 馬を管理する職であった平盛久(平盛国の子)が、平家滅亡後鎌倉に送られ処刑のために敷皮を敷いた地と伝わる。夢枕の頼朝に、盛久が深く信仰していた清水寺の観世音菩薩の霊告があり、盛久を許し、紀伊国の土地も与えたといわれる。
吉屋信子記念館 - 「良人の貞操」などで知られる大正昭和期に活躍した小説家 吉屋信子は、戦中と晩年をこの邸宅で過ごし、昭和48年に死去した。死後、事実上のパートナーであった秘書の千代により市に寄贈された。晩年の「徳川の夫人たち」「女人平家」などはここで執筆された。
長楽寺跡 - 鎌倉文学館のある長楽寺ヶ谷に、法然の孫弟子の智慶によって開かれた大寺院であったと伝わる。新田義貞の鎌倉攻めの兵火で焼失し、善導寺跡(現在の安養院)に移されたといわれる。
川端康成記念會 - ノーベル賞作家で鎌倉名誉市民でもある川端康成の邸宅隣にある財団法人。国宝「十便図・十宜図」「凍雲篩雪図」を所蔵。(非公開)
安達盛長屋敷跡 - 社頭一帯は源頼朝の流人時代からの側近で安達氏祖である盛長の屋敷があったといわれる。昭和53年の発掘調査で武家屋敷の遺構が発見された。
桑ヶ谷療養所跡 - 非人を含めた万人の救済に尽力した極楽寺の忍性によって開かれた施薬院の跡といわれる。20年間で延べ6万人を療養し、5万人の命を救ったと伝わる。また、桑ヶ谷は、日蓮弟子の日真が忍性弟子の龍像坊を論破した地ともいわれる。
鎌倉能舞台 - 昭和46年、能楽を中心とする伝統芸能振興のために建てられた。平成20年に改築され、新たに「能楽ミュージアム」がオープンした。

歴史

飛鳥~奈良時代
染谷時忠が屋敷を構えていたといわれる。
710年
甘縄神明神社が創建されたと伝わる。
736年
長谷寺が創建されたとも伝わる。
鎌倉時代
安達盛長が屋敷を構え、忍性によって施薬院が営まれ、鎌倉大仏が建立された。
1274年
光則寺が創建された。
江戸時代
収玄寺が草創された。深沢村と甘縄村の土地の一部を併せ、長谷村が成立した。
明治7年
長谷寺境内に長谷教立学校(現市立第一小学校の前身である尋常由比浜小学校の母体のひとつ)が開かれた。
明治22年
町村制施行で西鎌倉村の大字となった。
明治43年
江ノ電の極楽寺駅~小町駅間が開通し、鎌倉~藤沢間で全線開業した。
昭和46年
鎌倉能舞台が建てられた。
昭和60年
鎌倉文学館の一般公開が始まった。

撮影後記

 稲瀬川という小川流域に拓けた鎌倉屈指の人気エリアで、お土産などが軒を並べ、今更説明する必要もないでしょう。 鎌倉時代以前からの歴史ある地域ですが、かつて、この稲瀬川以西は深沢郷に属し、鎌倉郷には含まれていなかったようです。 奈良の長谷(泊瀬・初瀬)から命名されたと考えられていますが、佐助稲荷まで深く切り込む稲瀬川の谷(やつ)は「長谷大谷戸」ともいわれるので、もしかしたら、この長い谷に由来しているのかもしれませんね。
 もう終わっちゃいましたが、大河ドラマ「平清盛」で、上川隆也さんが演じていた平盛国がいます。 最終回を見てはじめて知ったのですが、平家滅亡後に鎌倉に送られ、日夜一言も発する事なく食事を一切絶って餓死によって自害しました。 長谷には、その盛国の子である盛久の霊跡が残っています。 現地にある謡曲「盛久」解説板によれば、「盛久の処刑の時、持っていた経巻から光が発散し、処刑人は目が眩んで振り上げた刀を落とし、太刀も2つに折れてしまった。」とのことです。 後に頼朝によって処刑を許され、紀伊国の土地まで与えられます。 頼朝は父であった盛国の態度を称賛したと伝わることから、こういった伝説が語り継がれることになったのでしょう。 さすがは、鱸丸です。

更新履歴

2013年2月17日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。

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