台下町

台1丁目~台5丁目

台地区のうち台1丁目~台5丁目のエリアである。前面に梶尾川と戸部川、背後に台峯丘陵がある台の地形は、水防及び防衛上の観点から優れており、縄文時代中期から人が住んでいたことが発掘調査から分かっている。

台下町

台下町について

基本情報

名称
台下町(だいしもまち)
交通機関
JR大船駅・湘南モノレール富士見町駅から徒歩
所在地
神奈川県鎌倉市台1丁目~5丁目(大字台は除く)

概要

台は柏尾川支流の戸部川に沿った細長い地域であるが、ここでは台下町(台1丁目~台5丁目)のみを取り上げる。 正面に戸部川、背後に台峯丘陵がある台の地形は、水防及び防衛上の観点から優れており、縄文時代から人が住んでいたことが発掘調査から分かっている。 こうした場所は「岱(だい)」の字を充てることが見られ、いつしか「台」に転訛したものと考えられる。 円覚寺塔頭の「黄梅院文書」の応永33年(1426年)が初見で、それ以前に山崎村から別れて成立したものとみられる。 明治22年の市町村制施行で、台村が小坂村(後の大船町)の大字となったことから、行政上では大船地域に含まれている。

見所

観光名所
神明神社 - 台下町の鎮守で、「お伊勢さん」と呼ばれている。元亀年間(1570年~1573年)村に疫病が流行ったため村の代表四名が伊勢詣で賜った神札を祀ったのが始まり。1648年の大地震で焼失後、承応三年(1654年)の再建。大正9年に村内の淡島社、第六天社、諏訪神社を合祀した。
塩釜神社 - 台戸部区の鎮守。江戸時代末、戸部の娘が仙台伊達公に仕え、帰郷に際して塩竈神社の分霊を賜り、安産や航路安全のため梶尾川左岸に祠を建立して祀ったという。
水天宮 - もと塩釜神社の氏子域であったが、末広町と呼ばれる当地が塩釜神社から距離が離れていたため、地域住民が新開地の鎮守として昭和3年に創建した。
水道山 - 嘗て水道の貯水池があった。西側斜面から竪穴式住居跡が見つかり、縄文時代中期以降の土器片、弥生式土器、土師器、鉄器、青銅器が出土した。また古墳時代の住居跡や玉類なども出土した。
梶尾川 - 梶尾川左岸の台1丁目は、行政上では玉縄地域に含まれる。毎年8月の盂蘭盆会では、「玉縄首塚まつり」が開催され、柏尾川で灯篭流しが行われる。

歴史

縄文・弥生時代
水道山から竪穴式住居跡、土器や鉄器が出土し、縄文時代から人が住んでいた。
古墳時代
水道山から住居跡や青銅器、玉類なども出土し、古墳時代も人が住んでいた。
室町時代
円覚寺塔頭の黄梅院領であった。
戦国時代
小田原北条氏馬廻衆の所領であった。
1526年
鎌倉へ攻め入った里見義豊の軍勢を北条氏時が柏尾川付近で撃退した。
1570~1573年
神明神社が創建された。
幕末
塩釜神社が創建された。
明治22年
台村が小坂村の大字となった。
昭和3年
水天宮が創建された。
昭和8年
小坂村が大船町へ改称した。
昭和23年
大船町が鎌倉市へ編入された。
昭和42年
住居表示変更で台1丁目~5丁目となった。
平成4年
住居表示変更で台1丁目が加算された。

撮影後記

 台は大船地域に含まれますが、北鎌倉カテゴリを作っているので、大字台の方は北鎌倉の方で取り上げています。 なお鎌倉市の行政区分では、台1丁目(柏尾川と東海道線に挟まれた細長い地区)だけ玉縄地域に含まれています。

更新履歴

2015年10月17日
初版をアップロードしました。

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