笛田

鎌倉幕府の防衛拠点

深沢地域の南東に広がるエリアである。鎌倉地域との境には、国の史跡に指定されている大仏切通があり、鎌倉幕府の防衛拠点であった。南西部の丘陵地帯は、戦後の宅地造営が進み、「鎌倉山」と呼ばれるようになった。

笛田

笛田について

基本情報

名称
笛田(ふえだ)
指定
国史跡(大仏切通)、歴史的風土特別保存地区(大仏特別保存地区)
交通機関
湘南モノレール湘南深沢駅から徒歩、バス利用
所在地
神奈川県鎌倉市笛田

概要

深沢地域南東に広がるエリア。 地名の由来は未詳で、川のほとりに生えていた葦の葉が、風に吹かれて鳴る様子から名付けられたともいわれる。 鎌倉地域との境には、国の史跡に指定されている大仏切通がある。 鎌倉攻めの新田義貞は、大仏切通を目前にしての大激戦となり、鎌倉幕府の防衛拠点であった。 南西部の腰越・津に及ぶ丘陵地帯は、戦後の宅地造営が進み、「鎌倉山」と呼ばれるようになった。

見所

国宝・重文
常盤山文庫跡(三貴園跡) - 昭和3年に実業家の菅原通済が六浦にあった旧家を移し、昭和11年には、福島県三春にあった堂坂観音堂を移し、本尊の一観音(重文)を祀った。昭和29年には常盤山文庫が設立され、国宝「清拙正澄墨蹟」「馮子振墨蹟」をはじめ重文20数点を収蔵した。以前は高級料亭として営業していたが、宅地造成される見込み。現在、鎌倉国宝館等での展覧会が開催されている。
国史跡
大仏切通 - 笛田・常盤・長谷の境界にある切通しで、鎌倉地域と深沢地域を結ぶ。鎌倉七口のひとつで、国の史跡に指定されている。現在の姿は、明治12年の開削工事のもので、大正8年には大仏トンネルが開通して廃道になった。
観光名所
佛行寺 - 500年以上続く日蓮宗の古刹。梶原景時の変で滅ぼされた梶原源太景季とその妻の霊を慰めるため、佛行寺を建てたとされる。書院裏手の急斜面には一面にツツジが植えられ、ツツジの寺として知られている。
源太塚 - 仏行寺裏山にあり、梶原景時の子で、駿河で討死した景季の片腕が葬られていると伝わる。妻の信夫(しのぶ)は、この場所で嘆き悲しみ自害し、毎夜のように嘆き声が聞こえてきたため、「信夫塚」が建てられたという。宅地造成によって、信夫塚は鎌倉山若松に移されている。
三嶋神社 - 笛田の鎮守。大庭景親が再建したと伝わる。もとは、谷隔ての宮ヶ崎にあったが、「水上に祀れ」という御神託によって、笛田川上流の萩郷に移され、さらに現在地に遷座された。
子守神社 - 戦前は笛田本村の鎮守であった蔵王権現社。打越が本村から分かれ、昭和21年に「子守神社」と改称して笛田打越区の鎮守とした。本社は奈良吉野の水分神社で、祭神は子守大神。
夫婦池 - 現在の笛田川の水源で、上池と下池から成る溜池。ヨシの群生地、イワボタン、ツリフネソウ、ハンゲショウなどの貴重な植物が自生し、カワセミなどの野鳥も生息する。
笛田公園 - 野球場、テニスコート、多目的広場などがあるスポーツ公園。

歴史

935年
鎌倉七郷のひとつ梶原郷(梶原・笛田・手広・寺分・常盤・山崎)に属していた。
平安時代
深沢荘津村郷に属していた。
鎌倉時代
深沢が南北に分かれ、南深沢に属していた。
1333年
鎌倉攻めの新田義貞は、三手に分かれた洲崎(深沢地域)の中央軍の指揮を執り、大仏切通を目前にしての大激戦となった。
1495年
佛行寺が創建された。
江戸時代初頭
幕府の天領であった。
江戸時代
井上氏、牧野氏の旗本知行地および下野鳥山藩領であった。
幕末
幕府の天領になった。
明治22年
笛田村が深沢村の大字となった。
昭和21年
蔵王権現社が子守神社と改称した。
昭和23年
深沢村が鎌倉市へ編入された。
昭和60年
住居表示変更で鎌倉山の新町名が生まれた。

撮影後記

 笛田という風流な地名。 由来は未詳で、一説には概要に記したように、ヨシの葉が風に吹かれて鳴る様子から名付けられたとも。 他にも、ヨシ竹と呼ばれる珍しい植物が生えていて、その茎で草笛を作ると美しい音色がしたからとか、笛のような田んぼが並んでいたからとかあるそうです。

更新履歴

2014年10月29日
初版をアップロードしました。

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