朝夷奈切通

鎌倉七口

鎌倉とその外港である六浦津を結ぶ六浦路に掘削された「鎌倉七口」のひとつで、国の史跡に指定されている。仁治年間(1240年~1243年)頃に開通したと考えられ、執権 北条泰時が自ら掘削工事に寄与したという。

朝夷奈切通

朝夷奈切通について

基本情報

名称
朝夷奈切通(あさいなきりどおし)
別称
朝比奈切通し(あさひなきりどおし)
指定
国史跡
駐車場
駐車場なし
交通機関
十二所神社バス停徒歩15分
所在地
神奈川県鎌倉市十二所

概要

鎌倉とその外港である六浦津を結ぶ六浦路に掘削された切通しで、鎌倉七口のひとつ。 「朝夷奈切通」として国の史跡に指定されている。 仁治年間(1240年~1243年)頃に開通したと考えられ、「吾妻鏡」によれば、執権北条泰時自ら実地検分し、乗馬をもって土石を運んだという。 伝説では、和田義盛の三男 朝比(夷)奈三郎義秀が一夜にして切り開いたことから「朝比(夷)奈切通し」と呼ばれる。 峠付近には、最大18メートル掘り下げられた切岸の遺構が残り、やぐらや納骨堂跡もみられる。

見所

国史跡
大切通し - 峠から鎌倉市側にかけて最大18メートル掘り下げられた切岸の遺構が残る。やぐらや納骨堂跡もみられ、周辺が葬送の地であった事を物語る。
小切通し - 峠から横浜市側にかけて最大16メートル掘り下げられた切岸の遺構が残る。
観光名所
熊野神社 - 源頼朝が、鎌倉に覇府を開くと、鬼門に当る朝比奈山上に熊野三柱大神を勧請したことによる。朝比奈切通し開鑿に際し、執権・北條泰時が社殿を建立したと伝わる。
朝夷奈ノ滝 - 朝夷奈切通の碑付近にある小滝。朝比奈三郎義秀に因み、「三郎の滝」とも呼ばれる。
梶原太刀洗水 - 梶原景時が上総介広常を討ち、切通から湧く水で太刀の血を洗い流したと伝わる。鎌倉五名水のひとつである。
庚申塚 - 朝夷奈切通に向かう道筋に残る庚申塚。この付近は「朝夷奈砦」があったといわれ、土塁の役割を果たしていたのではないかと考えられている。

歴史

1213年
三浦氏一族の和田義盛の反乱(和田合戦)で和田一族が滅亡し、北条氏の執権体制はより強固なものとなった。
1240年
鎌倉と六浦を結ぶ六浦路を造ることを幕府が決定し、執権 北条泰時自ら実地検分した。
1241年
切通しの開削がはじまり、泰時も乗馬をもって土石を運んだ。
1240~1243年
仁治年間、北條泰時が熊野神社社殿を建立した。
1247年
宝治合戦で三浦氏が滅亡し、北条実時が六浦及び金沢を支配していく。
昭和31年
切通しの北側に県道204号金沢鎌倉線が開通した。
昭和44年
国の史跡に指定された。

撮影後記

 鎌倉時代前期は北条氏による有力御家人の排斥が行われた時代です。 この頃、北条氏と三浦氏の争いが激しくなっていった時代で、三浦氏を凌駕するため三浦半島を経由せずに三浦氏の所領である安房に至るルートが必要でした。 塩を確保するために「塩の道」を造ったともいわれますが、鎌倉は海に面しているので、それよりむしろ、別ルート確保で鎌倉の外港である六浦津を手中に収めるためと考えるのが必然的かもしれません。 泰時自ら土木工事に寄与したのも、それだけ急務だったのでしょう。
 伝説では、和田義盛の三男 朝比奈三郎義秀が一夜にして切り開いたといわれますが、三浦氏出身の義秀は、切通しが開通したといわれる時代より前に起きた和田合戦で敗れ、安房国朝夷郡へ逃れたことから、時代的にも必然的にも合致しません。 なにか裏があるのでしょうか。

更新履歴

2012年8月6日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。

朝夷奈切通紀行のコメント

コメントを書く

お名前 ※
ホームページ
コメント本文 ※
認証キー ※ (半角)
Captcha Code

フェイスブックを開始しました。上のタブからどうぞ。

おすすめギャラリー

京都

京都紀行

作品追加中
さくら

さくら紀行

作品追加中
美瑛・富良野