満福寺

源義経の腰越状

744年、行基によって建立された真言宗の古刹。源義経の兄頼朝への謀反のない心情を綴った「腰越状」を執筆した寺として知られる。また、奥州から43日間かけて鎌倉に送られた義経の首実検をした場所とも伝わる。

満福寺

満福寺について

撮影後記

 腰越といえば釜揚げシラス? 休日にもなれば、近所の某しらすや(まんま)には行列ができ、貧乏な時分、よくシラス丼を食べていたので、シラスなんぞ行列に並んでまで食べたいもんかねと思ってしまいますが。 実は、満福寺の義経庵という茶店でもしらす料理が頂けます。 ロケーションというか眺めは良いというのか、少し微妙ですが、一度お試しあれ。
 さて、数冊の鎌倉関係の書籍などでは義経の首検分を満福寺でしたと書いてありましたが、ウィキペディアでは腰越の浦で行われたと書いてありました。 どっちなんでしょう? 中世の海岸線は、もっと満福寺の近くまで来ていたと思うので、どっちにしても寺の近くということですね。 義経の首検分が行われたとき、和田義盛は涙をこぼしたといいますから、判官贔屓でもないですが非情なお話です。

概要・歴史

山号を龍護山とする真言宗大覚寺派の古刹。 聖武天皇の勅命で関東の疫病を鎮めるように命された行基が、この地で祈祷したところ疫病が治まったため、功徳をたたえ、744年にこの地に創建されたと伝わる。 本尊は薬師三尊である。 1185年、平氏討伐を果たし鎌倉へ凱旋した源義経は、兄頼朝の怒りを買い(後白河法皇から兄の許しを得ずに官位を授かったのが一因)、鎌倉入りを許されず満福寺にとどまった。 侍所別当の和田義盛を通じて兄の怒りを解こうと努めたが許されず、公文所別当の大江広元に書状を出しとりなしを頼んだ。 このときの謀反のない心情を訴える書状が、よく知られる「腰越状」である。 それでも兄に受け入れられず、京に戻り、最期は奥州藤原氏のもとで不遇の死を遂げたとされる。 現在、弁慶が書いたとされる腰越状の下書きが展示されている。 また、境内には弁慶の腰掛け石や弁慶の手玉石なども展示されている。 毎年4月第3土曜の腰越商店街などを歩く「義経まつり」は賑わう。

住所: 神奈川県 鎌倉市腰越2丁目4-8

更新履歴

2010年12月19日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。
2014年11月15日
ギャラリーに作品を1点追加しました。
2014年11月16日
ギャラリーに作品を3点追加しました。
2014年11月17日
ギャラリーの作品を1点差し替えました。

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