明王院

五大堂

十二所にある真言宗御室派の寺院。鎌倉幕府四代将軍 藤原頼経によって、若宮大路にあった幕府の鬼門除けとして、北東にあたるこの地に五大明王を祀り創建された。五大明王を本尊とするため、「五大堂」と称される。

明王院

明王院について

基本情報

山号寺号
飯盛山寛喜寺明王院(はんせいざんかんきじみょうおういん)
別称
五大堂、五大堂明王院
宗派
真言宗御室派
創建
1231年(寛喜三年)
開山
定慶
開基
藤原頼経(九条頼経) - 鎌倉幕府四代将軍。
本尊
五大明王
札所
鎌倉観音霊場 第八番
駐車場
駐車場なし
交通機関
泉水橋バス停徒歩4分
住所
神奈川県鎌倉市十二所32

概要

十二所にある真言宗御室派の寺院。 五大明王を本尊とするため、「五大堂」と称される。 鎌倉幕府4代将軍 藤原頼経によって、若宮大路にあった鎌倉幕府の鬼門除けとして、北東の位置にある十二所に五大明王を祀る五大堂が創建されたのが起源。 中心に不動、東に降三世、西に大威徳、南に軍荼利、北に金剛夜叉の五大明王を祀り、総門・唐門のある大寺であったと伝わる。 鎌倉幕府の祈祷寺として重んじられ、元寇の際は、異国降伏祈祷が行われた。 室町時代も鎌倉府の祈祷寺として引き続き重んじられたが、やがて衰退し、江戸寛永年間に火災で五大明王のうち不動明王を残し焼失した。 本堂は1693年の再建で、茅葺きで趣がある。

見所

観光名所
本堂 - 1693年の再建で、茅葺の趣のある仏殿。本尊の不動明王像を中心に五大明王像が祀られ、脇侍に薬師如来像と大日如来像、開基の藤原頼経像などが安置される。
山門 - 素朴な冠木門。
二ツ橋 - 門前の滑川に架かる橋下には、かつて五大堂の礎石だったという二つの石があり、橋から落ちても、お不動様の霊験で怪我をしないので「不動けがなし石」と呼ばれていた。付近には御衣黄桜がある。
大慈寺跡 - 明王院の東側にあったという大慈寺は、1214年、源実朝が創建し、勝長寿院の「大御堂」に対して「新御堂」と称された七堂兼備の大寺院跡。光触寺には大慈寺本尊の仏頭といわれるものが残る。円覚寺舎利殿の仏舎利は、実朝が宋の能仁寺から勝長寿院に移し、その後、大慈寺に納められていたという。
大江広元邸跡 - 明王院裏山にある初弁天近くには、大江広元の墓と伝わる層塔がある。明王院近くに邸宅があったものと考えられている。

行事

1月28日
初不動 - 毎月28日は、お不動さまの縁日。護摩法要の後で、蕎麦が振る舞われる。

歴史

1214年
鎌倉幕府3代将軍 源実朝が、明王院の東側に七堂兼備の大慈寺を建立した。
1231年
鎌倉幕府4代将軍 藤原頼経が、二階堂・浄明寺・十二所あたりに寺院を建立する発願をし、執権 北条泰時らと現地を見聞したが、実朝建立の大慈寺があったため、長谷の甘縄に建立予定地を変更した。
1232年
北条泰時の法華堂が焼失したため、若宮大路にあった宇津宮辻子幕府の鬼門除けとして、北東にあたる十二所に五大明王を祀る五大堂を建立することとなった。
1235年
定慶が開山に迎えられ落慶された。
鎌倉時代
総門・唐門のある大寺で、鎌倉幕府の祈祷寺として重んじられ、元寇の際は、異国降伏祈祷が行われた。
室町時代
鎌倉府の祈祷寺として引き続き重んじられた。
1624~1644年
寛永年間、火災で五大明王のうち不動明王を残し焼失した。

撮影後記

 本堂や客殿が草葺で趣があって鎌倉らしい寺院です。 鎌倉時代この辺りには、鎌倉幕府の政所初代別当 大江広元や梶原景時の屋敷があったそうです。 明王院の裏山からは、瑞泉寺や天園ハイキングコースに通じていて、裏山には大江広元の墓と伝えられる石塔が残っています。
 撮影に関しては、残念ながら撮影はご遠慮くださいとのことです。 あと注意してほしいのは、敷石の上を歩いてくださいとお寺の方がおっしゃっていました。

更新履歴

2012年7月28日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。

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