大長寺

徳川家康ゆかりの寺

玉縄城主だった北条綱成によって、1548年に建てられた浄土宗寺院。四世の源栄は、徳川家康とも親交があり、家康も当寺にしばしば立ち寄り、家康が近くを通った際には、藤沢まで会いに行くなど交流が続いた。

鎌倉大長寺

鎌倉大長寺について

基本情報

山号寺号
亀鏡山大長寺(ききょうざんだいちょうじ)
別称
大長寿寺
宗派
浄土宗
創建
1548年(天文十七年)
開山
感誉存貞(かんよぞんてい)
開基
北条綱成(ほうじょう つなしげ/つななり)
中興開山
暁誉源栄(ぎょうよげんえい)
本尊
阿弥陀三尊
駐車場
無料駐車場あり
交通機関
大船駅より鎌倉湖畔循環バスで砂押橋バス停下車徒歩3分
住所
神奈川県鎌倉市岩瀬1464

概要

1548年に、玉縄城主だった北条綱成によって、妻の供養と国の平和を祈願して建立された浄土宗寺院。 開山は、小田原北条氏の家臣、大道寺氏の一族である感誉存貞。 二世三世は、江戸の増上寺住持として徳川家康の信任が篤かった。 特に、四世の源栄は、家康の故郷岡崎の松平家菩提寺「大樹寺」で修行をしていたため、家康とも親交があり尊崇された。 家康も鷹狩の際には当寺にしばしば立ち寄り、また家康が近くを通った際には、藤沢まで会いに行くなど交流が続いた。 当初は「大頂寺」という寺号であったが、家康の寄進状に「山号が亀鏡山なら、僧は大長寿だろう」とあったため、「大長寺」に改められた。

見所

市重要文化財
北条氏綱夫人木像 - 1549年の室町時代作
観光名所
宝蔵 - 家康と父 松平廣忠の位牌が祀られている。
参道の石段 - 家康が駕篭に乗ったまま上がれるよう幅広く造られている。
家康公お手植えの大銀杏 - ひこばえ。
北条綱成夫人の墓 - 境内の奥に眠る。

歴史

1548年
玉縄城主の北条綱成が、感誉存貞を開山に迎え「大頂寺」を創建した。
1590年
第四代の暁誉源栄は、豊臣秀吉の小田原攻めに際して、玉縄城に籠城していた北条氏勝を、徳川家康の内命を受けた龍寶寺の良達らと説得して降伏させた。
1591年
功績が認められ、家康から岩瀬に寺領50石の寄進を受け、現在地に移転。家康の進言によって「大長寺」と寺号を改めた。
1611年
源栄は、家康の側室で、将軍秀忠の生母である貞宗院の菩提を弔うため、植木に貞宗寺を開いた。
1614年
源栄は、家康の故郷である岡崎の大樹寺の住職に就いた。
明治16年
類火で本堂や家康公手植えの大銀杏などを焼失。
明治43年
本堂が再建された。

撮影後記

 岩瀬にある北条氏から徳川家と崇められた格式高い寺院です。 東側の岩瀬山一帯は、緑豊かな三浦丘陵の鎌倉市最北端で、これより北側は広大な関東平野が広がり、山らしい山はなく市街地が延々と続いています。 ハイキングコースではないようですが、県の鳥獣保護地域と、鎌倉市指定の保存樹林になっていて、杉林の中を尾根伝いに歩けます。 しばらく進むと、山林に囲まれた畑に出て、まるで信州の田舎にでも迷い出た雰囲気さえしました。 鎌倉はオシャレな洋食屋さんなどが多いので、流通しない希少野菜の需要もあるそうで、結構、山の中に菜園があったりします。
 また、西側の展望の開けた小高い丘の下には、戦時中の防空壕があるそうです。 廃道マニアではありませんが、撮影のため、このような洞窟にも入ったことがありますが、「気持ち悪っ」の一言です。 やぐらや昔の石切り場跡など、鎌倉には結構な数の洞窟が残っています。

更新履歴

2011年9月30日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。
2014年11月20日
ギャラリーに作品を1点追加しました。

大長寺紀行のコメント

コメントを書く

お名前 ※
ホームページ
コメント本文 ※
認証キー ※ (半角)
Captcha Code

フェイスブックを開始しました。上のタブからどうぞ。

おすすめギャラリー

京都

京都紀行

作品追加中
さくら

さくら紀行

作品追加中
美瑛・富良野