材木座

鎌倉の海の玄関口

鎌倉七座の一つとして賑わい、室町期まで材木商人の座が形成されていた。海岸沖に現最古の港湾施設である和賀江島があり、六浦が鎌倉の外港となるまで海の玄関口であった。「乱材祭」は初夏の風物詩となっている。

材木座

材木座について

基本情報

名称
材木座(ざいもくざ)
指定
国史跡(和賀江島)
駐車場
県営材木座駐車場、海浜組合駐車場(光明寺内)等利用。
交通機関
鎌倉駅東口よりバス
所在地
神奈川県鎌倉市材木座
サイト
材木座海岸オフィシャルサイト

概要

滑川の西、横須賀線の南、相模湾に面した鎌倉市の東南地域である。 鎌倉時代、幕府公認の商業地(鎌倉七座)として賑わい、室町時代まで材木商人の座が形成されていた。 材木座海岸沖には、中世築港の跡で、現存最古の港湾施設である和賀江島があり、六浦が鎌倉の外港となるまで、鎌倉の海の玄関口となり賑わった。 江戸時代には、浜方の漁業中心の材木座村と岡方の農業中心の乱橋村に分かれていた。 毎年6月第二日曜日には、五所神社の例大祭である「乱材祭」が盛大に行われ、材木座海岸から神輿が相模湾に海上渡御する。

見所

国史跡
和賀江島 - 材木座海岸沖にある中世築港の跡で、現存最古の港湾施設である。玉石を積んだ埠頭が海中に突き出て、現在では満潮時にほぼ海面下に沈む。六浦が鎌倉の外港となるまでの百年間、鎌倉の海の玄関口となり賑わった。
市史跡
内藤家墓地 - 陸奥国磐城(福島県いわき市)城主で、後に日向国延岡藩に転封した内藤家7万石の歴代霊廟。4代の忠興が光明寺を菩提寺に移した。大型宝篋印塔など39基を数え、燈籠、石仏など江戸時代の石塔が建ち並ぶ。
観光名所
光明寺 - 1243年創立の浄土宗寺院。開山は、浄土宗三祖然阿良忠上人である。歴代執権の帰依をうけ、後土御門天皇より浄土宗関東総本山の称号を受ける。春の桜と石庭のサツキ、夏の庭園の古代蓮が美しい。
長勝寺 - 日蓮宗寺院。日蓮の松葉ヶ谷法難跡地とも、この地の地頭であった石井長勝が自邸に法華堂を建て、伊豆から戻った日蓮を保護したのが起源ともいう。毎年2月11日には、寒中水行の荒行が境内行場で行われる。
五所神社 - 江戸時代、この地は乱橋村と材木座村とに分かれ、五社が鎮座していた。明治時代になり合祀され五所神社と改称した。毎年6月には、例大祭「乱材祭」が盛大に行われ、材木座海岸から神輿が海上渡御する。
来迎寺 - 源頼朝が三浦半島の衣笠城主であった三浦義明の菩提を弔うため建立したのが起源である。その後、開山の音阿が時宗に帰依し時宗寺院となった。春の彼岸の頃には、ミモザの大木が咲きほこり見事である。
實相寺 - 六老僧筆頭の日昭に開かれた日蓮宗寺院。境内は「曾我兄弟の仇討ち」で討たれた幕府の御家人・工藤祐経の屋敷跡だと伝わる。祐経の孫にあたる日昭が、祐経の屋敷跡に「濱土の法華堂」を建てたのが由来である。
九品寺 - 浄土宗寺院。新田義貞が鎌倉攻めの折に本陣を敷いた場所と伝わり、鎌倉攻めの三年後、北条方の多数の戦死者を弔うために本陣跡地に創建した。新田義貞が鎌倉に建てた唯一の寺でもある。
由比若宮 - 鶴岡八幡宮の元の鎮座地で、「元八幡」と称せられる。1063年、源頼義が由比郷鶴岡のこの地に石清水八幡宮の祭神を勧請したのが起源。源頼朝が鎌倉に入るや直ぐに、現在の本宮がある地に遷座した。
補陀洛寺 - 真言宗寺院で、1181年、源頼朝が鎌倉の南方(補陀洛浄土)に位置するこの地に祈願所として建立した。寺宝として、壇ノ浦の戦いで総大将 平宗盛が最後まで掲げた大将旗「平家の赤旗」が今に伝わる。
妙長寺 - 日蓮宗寺院。 日蓮伊豆法難で、伊豆沖の岩礁に置き去りにされた日蓮を助けたのが、當山を開山した漁師の舟守弥三郎と伝わる。もとは材木座海岸にあったが、江戸時代の津波被害で現在地に寺基を遷した。
向福寺 - 時宗総本山遊行寺の末寺。當山開山の一向俊聖は、鎌倉蓮華寺の然阿良忠の門弟となり、一遍上人同様に遊行回国し、踊り念仏を修した。一向の時衆(一向宗)は、江戸幕府の命により、時宗に統合された。
啓運寺 - 日蓮宗寺院。開山は寺号となっている啓運日澄で、1483年の創建。日澄の死後は明治末まで長勝寺の住職が兼任していた。画家の黒田清輝が、本堂をアトリエとしていたこと時期もあり、明治中期まで小学校の校舎としても利用されていた。
乱橋 - 滑川支流に架かる石橋で鎌倉十橋のひとつ。「吾妻鏡」には「濫橋」と記述があり、氾濫によるものといわれる。伝承では、新田義貞の鎌倉攻めの際に、幕府の防御線がこの橋で乱れたと伝わる。かつての乱橋村の語源。
弁ヶ谷 - 補陀洛寺の東の谷(やつ)を抜ける古道。「紅ヶ谷」「別ヶ谷」とも。方丈高時が開基となった臨済宗崇寿寺が15世紀初めまであった。横須賀市野比にある最宝寺もかつてこの谷にあった。
新居閻魔堂跡 - 「荒井閻魔堂址」とも。はじめ甘縄神明神社の近く、由比郷見越岩に建てられた。 その後、足利尊氏によって滑川の川岸へと移転した。1703年の元禄地震による津波により閻魔堂が大破し、北鎌倉の円応寺に移転した。
秋葉山大権現 - 明治30年代まで材木座の家々から一本ずつ集めた薪を燃やす「おかがり焚き」が行われていた。5月第3日曜の例祭では、光明寺から稚児行列が山上に上がり、火難水難除けのお経をあげる。
六角ノ井 - 飯島岬近くにある「鎌倉十井」のひとつ。八角井戸であるが鎌倉側に六角、小坪側に二角であることから六角の井と呼ばれる。
材木座海岸 - 滑川から東側の相模湾に面した海岸。江の島や富士山が海越しに望める。明治期に海水浴場となり、夏目漱石の「こころ」に登場し有名となった。

歴史

平安時代
「風土記稿」によれば、当地は「和賀」と呼ばれていた。
1063年
由比若宮が創建された。
1180年
源頼朝が鶴岡八幡宮造営のために材木座海岸から木材を陸揚げし、由比若宮の元八幡から遷座した。
1181年
補陀洛寺が創建された。
1194年
来迎寺が創建された。
1232年
和賀江島が開港した。
1243年
光明寺が創建された。
1251年
鎌倉七ヶ所の幕府公認の商業地(鎌倉七座)として賑わっていた。
1263年
長勝寺が創建された。
鎌倉時代
忍性が極楽寺に入ってからは、代々極楽寺長老の管理下に置かれ、維持管理と関銭津料の徴収を認められていた。
1284年
實相寺が創建された。
1336年
九品寺が創建された。
1367年
「足利義詮御教書」によれば、材木座を佐々木道誉に返付する命により、佐々木氏の管理下に移った。
江戸時代初頭
「鎌倉十橋」のひとつ乱橋を村の中心として「乱橋材木座村」と呼ばれていた。
1661~1704年
寛文年間(若しくは元禄年間)、浜方の漁業中心の材木座と岡方の農業中心の乱橋との間で争いがあり「材木座村」と「乱橋村」に分村した。
明治元年
「材木座村」と「乱橋村」が合村して「乱橋材木座村」となった。
明治22年
市町村制施行で「東鎌倉村」の大字乱橋材木座となった。
明治41年
材木座村の鎮守であった三島神社とその他四社が合祀され、「五所神社」と改称した。
昭和39年
鎌倉市材木座となった。

撮影後記

 「鎌倉七座」の名残ともいわれる材木座地区。 「庭訓往来」によれば、中世の鎌倉には檜物座(材木座)、絹座、炭座、米座、千朶積座、相物座、馬商座(博労座)の七座があったと記されています。 どこにあったかは不明ですが、おおよそ大町小町から材木座のあたりにあったものと推測されます。 乱材祭で一番神輿が謡う「鎌倉天王謡」は、鶴岡八幡宮造営の際に、人夫たちが材木座海岸から木材を陸揚げし、木材を運ぶため勇ましく謡ったものと伝わります。

更新履歴

2013年3月3日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。
2014年10月28日
ギャラリーに作品を1点追加しました。
2014年11月15日
ギャラリーに作品を1点追加しました。
2014年11月18日
ギャラリーに作品を1点追加しました。

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