妙本寺

比企氏小御所跡

1260年創建の大町にある日蓮宗本山。嘗てこの地は、比企能員ら比企氏の屋敷があり、比企谷と呼ばれる。頼朝の死後、比企氏と北条氏の間で主導権争いが起き、比企一族は比企谷の小御所に篭り屋敷に火を放ち自刃した。

妙本寺

妙本寺について

基本情報

山号寺号
長興山妙本寺(ちょうこうざんみょうほんじ)
宗派
日蓮宗
寺格
霊跡本山
創建
1260年(文応元年)
開山
日蓮
開基
比企能本(ひきよしもと)
本尊
十界大曼荼羅 - 臨滅度時の御本尊。
駐車場
無料駐車場あり
交通機関
JR鎌倉駅徒歩8分
住所
神奈川県鎌倉市大町1丁目15-1

概要

1260年創建の大町にある日蓮宗本山(霊跡寺院)。 嘗てこの地は、比企尼(頼朝乳母で頼朝を20年間支援し続けた)や比企能員(よしかず)(頼朝に仕えた御家人で比企尼の養子)ら比企氏の屋敷があり、比企谷(ひきがやつ)と呼ばれる。 頼朝の死後、比企氏と北条氏の間で主導権争いが起き、能員は討たれ、比企一族は比企谷の小御所に篭り、屋敷に火を放ち自刃した。(比企能員の変 / 比企の乱) その後、比企の乱で生き残った比企能本が、屋敷のあったこの地に法華堂を建立し、帰依していた日蓮に献呈し、父 能員の法名「長興」、能本の母の法名「妙本」を取って「長興山妙本寺」と号した。 その後、日朗が池上本門寺との住持を兼ね、日蓮宗比企谷(日朗)門流の重要拠点となった。 祖師堂は鎌倉最大級の木造建築で、池上本門寺と身延久遠寺の像とともに「一木三体の像」と伝わる日蓮聖人座像を安置する。 境内には比企の乱で滅亡した比企一族の供養塔や源頼家の嫡子 一幡が幼くして自刃し、焼け跡からわずかに見つかったという袖を埋めたという袖塚が残る。

見所

国重要文化財
雲版 - 室町時代建武四年の刻銘。時を告げる合図などに使われた銅造雲版。
市文化財
木造日蓮聖人座像 - 祖師堂に安置。池上本門寺と身延久遠寺の像とともに「一木三体の像」といわれ、日蓮存命時の像で最古とされ、14世紀の日法の作。
市天然記念物
イチョウ - 荏柄天神社に次ぐ大銀杏といわれる。
観光名所
祖師堂 - 1838年の再建。中央厨子に日蓮聖人座像、右に二世 日朗と比企能員夫妻の像、左に三世 日輪と比企能本夫妻の像を安置。
本堂(方丈) - 昭和6年の再建。日蓮が池上宗仲邸(本行寺)で臨終の際に枕元に掛けられたものと言われる十界曼荼羅を安置。
二天門 - 1848年の建立。欄間に飛龍が彫られ、両脇間に持国天と多聞天(毘沙門天)の二天像が安置されている。
惣門 - 十八世紀中期の建立。
方丈門 - 本堂へと続く冠木門。
霊宝殿 - 重文の銅造雲版や室町時代作の宝冠釈迦如来像などを収蔵。(非公開)
比企一族供養塔 - 比企能員の変(比企の乱)の謀略によって滅ぼされた比企一族の供養塔。
一幡の袖塚 - 源頼家の嫡子 6歳の一幡が、比企の乱で「小御所」に立て籠もり自刃し、焼け跡からわずかに見つかったという袖を祀る。
前田利家室塔 - 当寺を援助した前田利家の側室で利常の母 寿福院の大五輪塔。1624年の建立。
新釈迦堂跡 - 源頼家と若狭局(比企能員の娘)との娘で一幡の妹 鞠子(竹御所)が住んでいた場所。実朝暗殺後、頼朝の血筋をひく唯一の人物だったが、難産で死去。遺言によって建立され、墓石が残る。
万葉集研究遺跡の碑 - 鎌倉時代の万葉集学者の仙覚が、新釈迦堂で著した「万葉集註釈」を顕彰。
蛇苦止堂(じゃくしどう) - 守護神 蛇苦止明神を祀る。比企の乱で若狭局がこの地で井戸に身を投げ、後に執権北条政村の娘に蛇霊となって憑ったという。
蛇苦止の井 - 若狭局が身を投げたという井戸。松葉ヶ谷の六方ノ井と通じているという。
大円坊跡 - 八角形園舎の比企谷幼稚園となっている。

歴史

平安時代末期
比企尼(頼朝乳母で頼朝を20年間支援し続けた)と比企能員(頼朝に仕えた御家人で比企尼の養子)ら比企氏(武蔵国比企郡出身の豪族)の屋敷があった。
1182年
北条政子が比企尼の屋敷で源頼家を出産し、能員は頼家の乳母父になった。
1198年
能員の娘 若狭局が頼家の側室となり一幡を産み、将軍家外戚として権勢を強めた。
1203年
頼家が病に伏すと、次期将軍に一幡を推す比企氏と千幡(後の実朝)を推す北条氏との間で争いが起き、能員は頼家と北条氏討伐を謀るが名越で討たれ、比企一族は比企谷の谷戸(小御所)に篭り、屋敷に火を放ち自刃し、若狭局は井戸に身を投げた。(比企能員の変 / 比企の乱)
鎌倉時代初期
比企の乱で、能員の2歳の末子 能本は助命され、その後に都で順徳天皇に仕え、承久の乱後に佐渡島配流に同行し、姪にあたる頼家の娘(竹御所)が将軍藤原頼経の御台所になると、許され鎌倉に戻った。
1234年
竹御所が難産で死去し、遺言として釈迦堂を建立した。
1253年
能本が日蓮に帰依し、父 能員の屋敷のあったこの地に法華堂を建立し、日蓮に献呈した。
1260年
日蓮が、この法華堂に能員の法名「長興」、能本の母の法名「妙本」を取って「長興山妙本寺」と号した。
中世
日蓮の直弟子 日朗が池上本門寺との住持を兼ね、日蓮宗比企谷(日朗)門流の重要拠点となり、池上本門寺と当山は両山一首制で住職が兼務する習わしとなった。
江戸時代
司務職として本行院の住職が管理していた。
1838年
祖師堂が再建された。
1842年
天保の改革で廃寺となった感応寺の厨子を祖師堂に移設した。
昭和16年
両山一首制が廃止となった。
平成16年
由緒寺院から霊跡寺院に昇格した。

撮影後記

 鎌倉駅から徒歩で10分弱、都会の喧騒から逃れるにはもってこいの場所です。 夏目漱石の小説「門」の主人公である宗助は、北鎌倉の円覚寺に踏み入れたとき、世の中と寺の中の区別を悟りましたが、ここもそんな感じでしょうか。 ダウンタウンから程近い場所でも、春は新緑、夏は蝉時雨、秋から冬は紅葉と、四季折々の風情が残っているのが鎌倉の鎌倉たるところですね。
 寺域がある比企谷の谷戸は、比企氏一族が滅亡した霊域。 裏手墓地から裏山の祇園山ハイキングコースにも抜けれますので、東勝寺合戦で北条高時ら北条氏一門が滅亡した東勝寺跡に向かってみるのもいいかもしれません。 北条氏に滅ぼされた比企氏の小御所、その北条氏が滅んだ腹切りやぐらが谷ひとつ隔てた場所にあるのが、なんともなんとも。

更新履歴

2012年10月13日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。

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