腰越

(1丁目~5丁目)

鎌倉市西南端の相模湾に面するエリアで、古来より漁村として栄えてきた。シラスが特産品として有名で、腰越漁港付近には、朝採れたばかりの「生シラス」や「釜揚げシラス」などを食べることができる店も多い。

腰越

腰越について

基本情報

名称
腰越(こしごえ)
交通機関
江ノ電腰越駅から徒歩
所在地
神奈川県鎌倉市腰越

概要

鎌倉市の西南端に位置し、藤沢市片瀬と七里ヶ浜との間の相模湾に面するエリア。 鎌倉への宿駅にあたり、古来より漁村として栄えてきた。 鎮守として信仰を集める小動神社、源義経の腰越状で知られる満福寺、龍口寺輪番寺の小寺が数多く建っている。 江の島を望む腰越海岸は、シーズン中は海の家が建ち海水浴客で賑わう。 腰越漁港はシラスが特産品として有名で、シラス漁は毎年3月11日から年末まで行われる。 朝採れたシラスは、「生シラス」として朝市において販売されたり、天日干しされ「チリメンジャコ」に加工される。 付近には新鮮な「生シラス」「釜揚げシラス」などを食べることができる店も多い。

見所

観光名所
小動神社 - 佐々木盛綱が創建し、新田義貞も戦勝祈願した腰越の鎮守社である。毎年7月の「天王祭」は、夫婦社である江の島八坂神社との行合祭で、神輿が当社まで渡御し、腰越五ヶ町の出迎え行列での武者人形や山車が練り歩く。
諏訪仮宮 - 腰越神戸区の鎮守であったが、明治42年に諏訪社御神体を小動神社に合祀し、社殿だけ現在地に残っている。かつては東漸寺境内に鎮座していた。
浄泉寺 - 真言宗大覚寺派の寺院。寺伝によれば、弘法大師空海が草創したと伝わる。大正6年まで小動神社の別当寺で、神仏分離後も長らく別当を務めた。また、当寺の寺小屋は現在の腰越小学校の前身ともなっている。
満福寺 - 744年、行基によって建立された真言宗の古刹。源義経の兄頼朝への謀反のない心情を綴った「腰越状」を執筆した寺として知られる。また、奥州から43日間かけて鎌倉に送られた義経の首実検をした場所とも伝わる。
本龍寺 - 1302年創建の日蓮宗寺院で、比企高家の屋敷跡に建立されたと伝わる。開山は日行で、龍口寺輪番八ヶ寺のなかで最も早く創建された寺である。参道に展示されたサクラソウとクリスマスローズは一見の価値がある。
妙典寺 - 日蓮の門弟であった天目が、1308年~1313年に建てた日蓮宗寺院。龍口寺輪番八ヶ寺の一つ。腰越の谷戸奥に建っているため、かつて「腰越の谷戸寺」とも呼ばれていた。
勧行寺 - 1303年創建の日蓮宗寺院で、龍口寺輪番八ヶ寺のひとつ。本尊の三宝祖師と共に祀られている文殊菩薩像の胎内には、江戸時代に檀家の漁師が釣りあげた「海中出現文殊菩薩」が納められ、十月の大祭で御開帳される。
東漸寺 - 日蓮宗寺院で、龍口寺輪番八ヶ寺のひとつである。1352年、下総国の法華経寺の日東が、龍口寺を維持するため差し向けられ、龍ノ口刑場跡に創建したと伝わる。
本成寺 - 日蓮宗寺院で、龍口寺輪番八ヶ寺のひとつである。 1309年、日蓮の弟子の日賢によって建立されたといわれる。もとは本覚寺の末寺であった。
宝善院 - 創建は天平神護年間(765~767)と伝わる真言宗の古刹。2つの山号寺号をもち、院号が宝善院である。江戸時代には、寶善院の僧が龍口明神社の別当に任じられ、村の神社や寺の仕事を引き受け村人の信仰を集め栄えた。
法源寺 - 日蓮宗の寺院で、龍口寺輪番片瀬八ヶ寺のひとつ。1303年、日行上人が開山。龍ノ口刑場に引かれていく日蓮に、尼僧の桟敷尼(法源寺は実家の菩提寺)が、ぼた餅を食べさせた逸話から「ぼたもち寺」と呼ばれる。
腰越海岸 - 小動岬から片瀬海岸東浜にかけての砂浜で江の島が望める。シーズン中は海の家が建ち、腰越海水浴場や片瀬海岸東浜海水浴場での海水浴客で賑わう。
腰越漁港 - シラスが特産品として有名で、シラス漁は毎年3月11日から年末まで行われる。その他にイワシ、アジ、カマス等の定置網漁などが行われている。遊漁船も多く、休日には一般の釣り客で賑わっている。
鎌倉高校前駅 - 江ノ島電鉄の腰越駅と七里ヶ浜駅間にある無人駅で、「関東の駅百選」に選定されている。駅ホームからは七里ヶ浜の湘南海岸が見渡せ、晴れた日には富士山や房総半島・伊豆大島が望める。駅周辺はテレビドラマやCM撮影の名所となっている。
七里ガ浜(一部) - 日本の渚百選の一つ。地名の由来は、稲村ヶ崎と小動岬間が鎌倉時代の尺貫法で、およそ7里あるからというのが一説。遠浅の海岸ではなく、海底には海食台が発達し、複雑な波が立つので、年中サーファーで賑わう。
小動岬 - 小動神社がある岬で「八王子岬」「小動の鼻」とも呼ばれる。七里ヶ浜と腰越の浜を分けている。
台場跡 - 幕末の黒船出没での異国船打払令で設置された砲台跡。現在、第六天社裏の人家の敷地内となっている。
十間坂 - 小動岬の東側の路地で、鎌倉へと通じる旧本道と考えられている。鎌倉攻めの新田義貞軍は、十間坂に火をつけて攻め込んだ。
江の島参詣道 - 腰越駅の脇から腰越漁港に通じる道が、深沢方面から江の島へ向かう参詣路であったと考えられている。かつては道標が立っていたが、事故で壊れ、腰越行政センター駐車場入口付近に移された。
観音堂跡 - かつて十一面観音像を安置した観音堂があった。現在、観音像は宝善院に安置されている。
長山別荘地 - 腰越小学校裏山一帯を長山と呼び、大正時代には避暑地腰越の別荘地があった。原敬、田中義一、清浦圭吾、福沢諭吉、福島種臣、伊達宗城など。

歴史

744年
満福寺が行基によって建立されたと伝わる。
1185年
平氏討伐を果たし鎌倉へ凱旋した源義経であったが、兄頼朝の怒りを買い、鎌倉入りを許されず満福寺に逗留した。このときの謀反のない心情を訴える書状「腰越状」を公文所別当の大江広元にとりなしを頼んだ。
1189年
義経の首が平泉からから届けられ、腰越ノ浦で首実検が行われた。
1302年
本龍寺が比企高家の屋敷跡に建立された。
1308~1313年
日蓮の門弟であった天目が妙典寺を創建した。
1303年
日実によって勧行寺が建立された。
1309年
日蓮の弟子の日賢によって本成寺が建立された。
1333年
新田義貞の鎌倉攻めの際、八王子宮(小動神社)に戦勝祈願し、倒幕成就の後、太刀一振に黄金を添えて寄進し、それで社殿を再興した。
1352年
下総の法華経寺の日東が、龍口寺を維持するため差し向けられ、龍ノ口刑場跡に東漸寺が創建された。
江戸時代初期
この地(腰越と津)は江戸幕府の直轄領で、土豪の島村氏が代官として代わりに取り仕切り、苛烈な徴税を課していたといわれる。
1666年
村の分離を幕府に訴え、幕府は腰越を村として扱う事を決め、島村氏とその縁者が持つ土地は津村、それ以外の者が持つ土地は腰越村とされた。
1727年
腰越村と龍口寺との間であった争いの際に、片瀬村との境界が確定した。
1768年
難破船の船板が腰越村に流れ着き、これを片瀬村の者が引き揚げたことが発端となり、腰越村と片瀬村との間で境界紛争が起こった。
1776年
境界紛争の判決が確定し、龍口寺を片瀬村側とするような境界が新たに定められ、腰越村は沖合い漁を、片瀬村は地引き網漁を互いに入会として行ってきていたことを認定し、今後もこの慣例どおりとすることと言い渡された。
明治22年
町村制施行で津村と合併して鎌倉郡腰越津村となった。
昭和6年
腰越津村から腰越町が独立した。
昭和14年
鎌倉町と合併して鎌倉市腰越となった。

撮影後記

 腰越と津の辺りは、境界が入り組んでいたり飛地があったりと複雑です。 これは、歴史の項で記しましたが、もとはひとつの村で、江戸時代の悪代官から村人が分離した結果によるもの。 代官の縁者が持つ土地は津、それ以外の者が持つ土地は腰越とされたことによります。 この腰越北部は、「湘南モノレール沿線」カテゴリの「西鎌倉地域」の方で紹介しています。  そして、腰越という語源は諸説あるようです。 「江ノ島縁起」では、その昔、深沢にあったとされる湖に五頭竜が住み、津村に出没しては十六人もの子供を食らったため、村人は住み慣れた土地を泣く泣く離れたといいます。 このことから「子死越」「子死恋」と呼ばれ、転訛して「腰越」になったと伝わります。 龍は水、津は港にも関係するので、はるか昔、神戸川が氾濫したり津波などの被害があり、このような伝承になったのかもしれません。 「風土記稿」によれば、北方が高く、南に相模湾に面した低く肥沃な土地が広がっていたため、山の越を越えて移住してきたためと記されています。

更新履歴

2012年11月11日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。
2014年11月5日
ギャラリーに作品を1点追加しました。
2014年11月18日
ギャラリーに作品を1点追加しました。
2014年11月21日
ギャラリーに作品を1点追加しました。

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