十二所

朝夷奈切通

鎌倉市の東端に位置し、横浜市金沢区に接する。光触寺境内にあった熊野十二所権現社(現在の十二所神社)に地名は由来する。北条泰時は東京湾側の金沢とを結ぶ朝夷奈切通を開削して、鎌倉の外港となっていく。

十二所

十二所について

基本情報

名称
十二所(じゅうにそ / じゅうにしょ)
指定
歴史的風土特別保存地区(朝比奈切通し、瑞泉寺特別保存地区)
交通機関
鎌倉駅東口からバス利用
所在地
神奈川県鎌倉市十二所

概要

鎌倉市の東端に位置し、横浜市金沢区朝比奈と接する。 執権北条泰時は、東京湾側の金沢とを結ぶ朝夷奈切通を開削して、相模湾に面する鎌倉の外港となっていく。 公文所の別当となった大江広元は屋敷を構え、幕府の鬼門除けとして、北東にあたるこの地には大寺が創建され、鎌倉の東の要地であった。 江戸時代後期まで光触寺境内にあった鎮守の熊野十二所権現社(現在の十二所神社)に地名は由来する。 その昔、十二軒の村であったからという俗説も存在する。

見所

国史跡
朝夷奈切通 - 鎌倉とその外港である六浦津を結ぶ六浦路に掘削された「鎌倉七口」のひとつで、国の史跡に指定されている。仁治年間(1240年~1243年)頃に開通したと考えられ、執権 北条泰時が自ら掘削工事に寄与したという。
市史跡
番場ヶ谷やぐら群 - 鎌倉の秘境「番場ヶ谷」にある20穴のやぐら群。廃寺となった月輪寺のあったところで、元弘の乱で自刃した北条一族の首を埋めた「北条首やぐら」といわれている。
観光名所
明王院 - 真言宗御室派の寺院。鎌倉幕府四代将軍 藤原頼経によって、若宮大路にあった幕府の鬼門除けとして、北東にあたるこの地に五大明王を祀り創建された。五大明王を本尊とするため、「五大堂」と称される。
光触寺 - 1279年創建の時宗寺院である。寺宝として、鎌倉時代の数少ない絵巻物である「頬焼阿弥陀縁起」があり、当寺本尊の阿弥陀如来像の霊験を描いたものとされ、いずれも国の登録有形文化財になっている。
十二所神社 - 12世紀末創建の十二所の鎮守。かつて「熊野十二所権現」として光触寺境内にあったが、江戸天保期に、氏子三十余軒による土地用材の寄進によって現在地に遷座された。毎年9月には、万灯神輿が町内を賑やかに回る。
大江広元墓 - 明王院裏山の胡桃山にある層塔で、大江広元の墓と伝わる。江戸時代、大江広元の子孫である毛利家の家老が墓を探しにきたが、威張り散らす役人に腹を立てた村人は、墓のありかを教えなかったという。
大江広元邸跡 - 明石橋を渡った向かいの住宅地付近に、公文所の別当となった大江広元の屋敷があったといわれる。向かいの胡桃山には、大江広元の墓と伝わる層塔が立っている。
大慈寺跡 - 源実朝が父頼朝のために創建した寺で、勝長寿院の「大御堂」に対して「新御堂」と呼ばれた。円覚寺舎利殿に納められている仏舎利は、実朝が宋の能仁寺から勝長寿院に安置し、その後に大慈寺に納められていた。また、大慈寺の阿弥陀如来の仏頭が、光触寺に安置されている。
十二所果樹園 - 三浦丘陵緑地帯の山腹に、梅400本、栗200本、柚40本などが植えられている果樹園。白梅は鎌倉一の本数を誇り名所として知られている。鎌倉風致保存会が果樹園全体を買い上げ、維持管理に努めている。

歴史

12世紀末頃
十二所神社が創建された。
1212年
大慈寺が創建された。
1231年
明王院が創建された。
1240~1243年
仁治年間、朝夷奈切通が開削された。
1279年
光触寺が創建された。
江戸時代
十二所村は、西御門村・浄明寺村・二階堂村と共に「谷合四ヶ村」と称された。
1838年
十二所神社が現在地に遷座された。
明治22年
市町村制施行で、十二所村が東鎌倉村の大字となった。

撮影後記

 昔は十二所を十二郷ヶ谷といたそうで、「鎌倉志」によれば十二軒の家村だったからとか。 識者によれば、光触寺の鎮守熊野三山の「熊野十二所権現」に由来するものだろうとのこと。 ちなみに、「じゅうにそ」は転訛したもので、「じゅうにしょ」というのが正確なんだそうです。

更新履歴

2011年11月13日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年11月6日
「十二所神社」から「十二所」紀行に変更しました。
2014年11月6日
ギャラリーに作品を2点追加しました。

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