大町

鎌倉時代の商工業地

鎌倉時代における商工業地域「大町」に由来する。東西路の大町大路と、南北路の小町大路が交差する一帯が、商工業地域の中心で町屋が多く立ち並んでいた。滑川に架かる夷堂橋を境に、以北を小町、以南を大町とした。

大町

大町について

基本情報

名称
大町(おおまち)
別称
名越
指定
国史跡(名越切通、大町釈迦堂口遺跡)、歴史的風土特別保存地区(妙本寺・衣張山、名越切通し特別保存地区)
交通機関
鎌倉駅東口から徒歩、バス利用
所在地
神奈川県鎌倉市大町

概要

鎌倉時代における商工業地域「大町」に由来する地名。 下馬から名越切通に通じる東西路の大町大路と、筋替橋から本覚寺前の夷堂橋を渡り材木座の光明寺に至る南北路の小町大路が交差する一帯(大町四ッ角)が、幕府に許可された商工業地域の中心で町屋が多く立ち並んでいた。 「風土記稿」では滑川に架かる夷堂橋を境に、以北を小町、以南を大町と称したといい、現在にも通じている。 一方、名越(現在の大町3丁目~5丁目あたり)は、鎌倉の南東側の防衛の要地であり、北条氏や有力御家人が屋敷を構えていた。 名越に館を構えた初代執権の北条時政は「名越殿」と呼ばれ、同様に北条朝時は名越流北条氏の祖となった。 また、日蓮聖人の松葉ヶ谷草庵が此の地にあったため、日蓮宗寺院が多いのも特徴である。

見所

国史跡
名越切通 - 鎌倉七口のひとつで、鎌倉から三浦半島へ通じる浦賀道の一部であった。名前の由来は、峻険で「難越」(なこし)と呼ばれたことに由来する。鎌倉七口のなかでも、初期の遺構を最も保っている切通とも云われる。
大町釈迦堂口遺跡 - 「日月やぐら」「唐糸やぐら」「地蔵やぐら」「黄金やぐら」などの存在は知られていたが、平成20年の発掘調査により、総数64基のやぐらが丘陵の上・中・下段に存在することが明らかになった。以前は北条時政邸跡と考えられていたが、それ以後の13世紀後半から15世紀に至るものであることが判明した。
市文化財
石廟 - 名越の尾根にある石造建造物二基。鎌倉時代後期から南北朝期のものといわれ、石造の墳墓堂は珍しい。遺骨を納めた蔵骨壺が納められていたと考えられている。
観光名所
安国論寺 - 日蓮宗寺院。日蓮が鎌倉で初めて草庵を結んだ松葉ヶ谷草庵跡とされ、境内にある岩屋の御法窟で、「立正安国論」を草したと伝わる。花歴も豊富で、妙法桜をはじめ、山茶花や海棠も市の天然記念物である。
妙法寺 - 寺伝によれば、日蓮が草庵を結んだ松葉ヶ谷草庵跡だと伝わる。中興の日叡は、後醍醐天皇の皇子で幕府討幕に尽力した護良親王の遺児で、裏山には護良親王と日叡の墓がある。鎌倉の「苔寺」として知られている。
妙本寺 - 1260年創建の日蓮宗本山。嘗てこの地は、比企能員ら比企氏の屋敷があり、比企谷と呼ばれる。頼朝の死後、比企氏と北条氏の間で主導権争いが起き、比企一族は比企谷の小御所に篭り屋敷に火を放ち自刃した。
安養院 - 浄土宗寺院で祇園山長楽寺安養院という。安養院は、政子の法号から取られたものである。長楽寺・善導寺・田代寺が統合されてできた。大型連休には境内をツツジが埋め尽くし、鎌倉屈指の躑躅の名所で大変賑わう。
大宝寺 - 1444年創建の日蓮宗寺院。常陸の御家人「佐竹屋敷跡」と伝えられる。佐竹義盛が屋敷近くに多福寺を建立し、廃寺となった後、日出が寺号を大寶寺に改名し復興した。境内には、佐竹氏の守護神社の多福明神社がある。
別願寺 - 時宗寺院。1282年に真言宗から時宗に改宗し「別願寺」と号した。室町時代には鎌倉公方代々の菩提寺として栄えたが、江戸時代以降微衰した。春にはヤマフジの大木が、無数の花房を垂らし見事である。
常栄寺 - 1606年創建の日蓮宗寺院。龍ノ口刑場に引かれていく日蓮に、この地に住んでいた尼僧の桟敷尼が、ぼた餅を食べさせ、その後、上人は処刑を免れた逸話から「ぼたもち寺」として親しまれている。
教恩寺 - 時宗藤沢清浄光寺末。北条氏康が光明寺境内に建て、1678年に大町に移った。本尊の阿弥陀三尊像は運慶作と伝わり、平重衡が一ノ谷の合戦で捕らえられ鎌倉に連行された際、源頼朝より与えられ信仰したとされる。
本興寺 - 日蓮宗寺院で、日蓮の辻説法霊跡のひとつと伝わる。1336年、日蓮九老僧の天目が辻説法の霊跡に建立し、日什が第2世となると、「辻の本興寺」と称され興隆した。
八雲神社 - 大町の鎮守古社。1083年、新羅三郎義光が、疫病に苦しむ人々を救うために、京都祇園社の祭神を勧請したのがはじまりと伝わる。 毎年7月の例大祭「鎌倉祇園大町まつり」は、大町の夏祭りとして盛大に行われる。
上行寺 - 1313年創建の日蓮宗寺院。本堂は、妙法寺から移築したもので、江戸時代後期に肥後細川家によって建立された。また、瘡守稲荷や鬼子母神を祀る御堂があり、病除け、特に癌封じに霊験ありといわれる。
延命寺 - ※ 延命寺紀行アップ時に記入します。
辻の薬師堂 - 材木座境の大町の辻にある廃寺となった長善寺の薬師堂。長善寺は名越に創建され、この地に移転してきたが、横須賀線が境内に敷かれたときに廃寺となった。堂内に安置されていた「薬師如来立像(県文)や十二神将立像(県文)」は、鎌倉国宝館に寄託されている。
釈迦堂切通 - 浄明寺と大町を結ぶ切通しのトンネル「釈迦堂口」がある。この付近には、北条泰時が父義時の追善供養に建てた釈迦堂があったといわれる。現在、崩落の危険性があるために通行止めとなっている。
夷堂橋 - 滑川に架かる「鎌倉十橋」のひとつ。中世、この橋より北が小町、南が大町とされた。「かながわの橋100選」にも選定されている。
逆川橋 - 滑川支流の逆川に架かる「鎌倉十橋」のひとつ。逆川がこの付近で大きく蛇行して北流するため、この名が付けられた。
化生窟 - 日蓮が鎌倉入りし、この岩窟に寝泊まりし、妖怪を退治したと伝わる。
銚子ノ井 - 「鎌倉十井」のひとつ。長柄の付いたお銚子に似ているため、この名がつけられた。また、藍や側面が石造りであることから「石ノ井」とも呼ばれている。一説には、長勝寺の石井長勝が作ったとも、山号の「石井山」に因んで石で作ったとも。
六方ノ井 - 妙本寺蛇苦止堂にある若狭局が身を投げたという蛇苦止ノ井に通じ、2つの井戸を蛇が行き来していると伝わる。一説には弘法大師が掘ったとも伝えられ、明治17年の日照りでも水が枯れなかったことから重宝された。
日蓮乞水 - 「鎌倉五名水」のひとつ。日蓮が名越切通を越えて鎌倉入りした際に、喉が渇き持っていた杖で地面を突き刺したところ水が湧き出したと伝わる。
御硯水 - 日蓮が松葉ヶ谷に草庵を結び、「立正安国論」を書く硯水に使用した井戸だという。
北斗七星の石碑 - 文化五年(1808年)北斗尊星と刻まれた珍しい石碑。
町屋址碑 - 1251年、幕府は小町屋を指定し、大町、小町、米町、亀谷辻、和賀江、大倉辻、気和飛坂山上以外での商業が禁止された。1265年に再指定が行われ、大町、小町、魚町、米町、武蔵大路下、須地賀江橋、大倉辻に限られた。付近の逆川には、「魚町橋」(いおまちばし)が架けられている。
衣張山 - 浄明寺と大町の境界にある標高120mの山で、源頼朝が白絹で山を覆わせて雪景色に見立てて涼を愉しんだと伝わる。また、尼が松に衣を掛けてさらしたことから「衣掛山」とも。
パノラマ台 - 浄明寺と大町の境界に位置し、名越切通に向かうハイキングコース分かれにある展望台。360度の眺望が利き、鎌倉や逗子の街並みと相模湾、遠く富士山も望める。

歴史

1083年
八雲神社が創建された。
鎌倉時代初頭
執権北条時政が、名越に館を構えたことから、「名越殿」と呼ばれた。
1225年
安養院が創建された。
1251年
幕府は小町屋を指定し、大町、小町、米町、亀谷辻、和賀江、大倉辻、気和飛坂山上以外での商業が禁止された。
1253年
日蓮が安房から鎌倉入りして松葉ヶ谷草庵を結んだ。(安国論寺や妙法寺などの創建)
1265年
幕府は小町屋を再指定し、大町、小町、魚町、米町、武蔵大路下、須地賀江橋、大倉辻に限られた。
1260年
妙本寺が創建された。
1282年
別願寺が時宗に改宗した。
1313年
上行寺が創建された。
1336年
本興寺が創建された。
1444年
大宝寺が創建された。
1606年
常栄寺が創建された。
1678年
教恩寺が創建された。
明治22年
市町村制施行で、大町村が東鎌倉村の大字となった。
平成20年
大町釈迦堂口遺跡の発掘調査で、北条時政邸跡と考えられていたものが、それ以後の時代のものであることが判明した。

撮影後記

 小町に比べて町屋の数が多かったから、「大町」と名付けられたといわれています。 大町地区は大きく分けて、西側の今でも商店などが軒を並べる本来の意味での大町と、東側の丘陵地帯に二分されます。 東側は「名越」とも呼ばれています。 ローソン付近に名越バス停がありますが、江戸時代には安養院から東側を名越と呼んでいたそうです。

更新履歴

2014年11月10日
初版をアップロードしました。

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