山崎

山丘の先端

深沢地域北東エリア。地名の由来は、山丘の先端という地形。また、京都山崎の宝積寺を模し建立した際に、洲崎を山崎に改名したとも伝わる。豊かな自然を残す山崎の谷戸地形を生かした鎌倉中央公園や台峯緑地がある。

山崎

山崎について

基本情報

名称
山崎(やまさき)
交通機関
湘南モノレール富士見台駅、湘南町屋駅から徒歩
所在地
神奈川県鎌倉市山崎

概要

深沢地域の北東に広がる自然豊かなエリア。 円覚寺塔頭の黄梅院領で、洲崎にも含まれていた。 地名の由来は、山丘の先端という地形によると考えられている。 また、頼朝に仕えた御家人の山崎氏祖である山崎憲家が、此の地に住んだことからとも。 さらに、京都山崎の宝積寺を模し、当地にも宝積寺を建立した際に洲崎を山崎に改名したとも伝わる。 山崎の鎮守北野神社が鎮座する天神山からは、土器や土師器も出土し、縄文弥生時代から人が住んでいた。 エリア内には豊かな自然を残す山崎の谷戸地形を生かした鎌倉中央公園や台峯緑地がある。

見所

観光名所
昌清院 - 臨済宗円覚寺塔頭如意庵の末寺。「相模風土記」によれば、1597年に如意庵八世が庵の隠居寺として開いたという。江戸時代以降、衰退し無住時代が続いていたが、昭和45年に現在の山崎の地に建て直され復興した。
妙法寺 - 日蓮宗寺院。関東大震災で焼失し廃寺となった山梨県の耀光院妙法寺を昭和3年にこの地へ再建した。境内には十数体の「子育て地蔵」があり、石を積み子供の健やかな成長を願う参拝者も少なくない。
北野神社 - 菅原道真を祭神とする山崎の鎮守。夢窓疎石が円覚寺の南西にあたる山に京都の北野天満宮を勧請したと伝わる。神社の建つこの山は天神山と呼ばれている。毎年7月、山ノ内の八雲神社との行合祭で神輿渡御が行われる。
もろん台 - 天神山が良く見える高台。「物見台」が鈍って「もろん台」になったという。戦時中に山が切り崩されるまでは、やぐらもあったという。北野神社の末社であった神明社の跡地で、現在北野神社の宝篋印塔の背後に祀られている。
お塔様 - 五輪塔が祀られている祠。慶安年間(1648年~1651年)、山崎を知行した奥平氏の娘 宗高院の墓所といわれる。宗高院は、屋敷にあった門を小袋谷の成福寺に寄進したと伝えられている。
庚申塚 - 庚申塔三基と供養塔一基が並び立っている。右側の庚申塔は元禄13年(1700年)のもので、青面金剛と三猿が陰刻されている。
馬頭観音の石碑 - この付近には昔、「ねのかみ」と呼ばれた「子神社」があった。馬頭観世音が祀られ、家畜の死体を埋めたという。
江の島道標 - 江戸時代の江ノ島参詣古道。北野神社を修理した梅澤尋庸が文化8年(1811年)に建てた道標。
宝積寺跡 - 京都山崎の宝積寺を夢窓国師が模して建立したと伝わる。愛甲氏の菩提寺とされ、戦国時代に津久井郡の串川光明寺に移され廃寺となった。当時の五輪塔が民家に残っている。
十王堂跡 - 山崎集会所のあたり。江戸時代に現在昌清院に安置されている十王像を祀る十王堂があった。現在、北野神社から移された神輿が保管されている。階段を上ると十王堂中興開山の興宗鏡考の墓がある。
薬師堂跡 - 鎌倉十体のひとつという薬師如来が安置されていたが、台の東渓院に移された。山ノ内の光照寺の薬師如来という説もある。
横穴墓群跡 - 砂岩をノミでくり抜いてつくられた奈良時代の横穴墓が50余りあったが、宅地造成で遺構は殆ど見ることはできない。人骨や須恵器、土師器など多数の副葬品が出土し、鎌倉国宝館に収蔵された。
源頼朝のかくし湯跡 - 頼朝もお忍びで来たと伝わる。古来よりラジウム鉱泉が湧き出ていたところで、「湯之元」とか「熱海」という小字が残る。 戦前までは「山崎園」という温泉旅館があり、賑わっていたという。
鎌倉中央公園 - 平成16年に全面開園した風致公園。豊かな自然を残す山崎の谷戸地形を生かし、市民活動団体の手によって、谷戸の水田や畑などで昔ながらの農村体験が行われ、自然との共生が日々図られている。
台峯緑地 - 山崎の倉久保ノ谷戸と台の台峯とから形成されている自然豊かな鎌倉の三大緑地のひとつ。倉久保の谷戸には谷戸ノ池がある。また、「半七やぐら」と呼ばれる横穴墓など数個が見られたが、山崎小学校を建てるときに壊されてしまった。
富士塚 - 山崎・上町屋・寺分の境に位置している塚。富士浅間神社を祀る石碑が点在し、富士の形をまねて先人が築いた塚であると考えられる。頂上には嘉永二年(1849年)銘の釈迦の首なし石像が置かれている。

歴史

縄文・弥生時代
天神山から土器や土師器も出土し、縄文弥生時代から人が住んでいた。
935年
鎌倉七郷のひとつ梶原郷(梶原・笛田・手広・寺分・常盤・山崎)に属していた。
1333年
この一帯(洲崎)は、新田義貞軍と北条軍の激戦地となった。
室町時代
寺分・上町屋・梶原と共に洲崎郷に含まれていた。
1338~1342年
夢窓疎石が円覚寺の南西にあたる山に京都の北野天満宮を勧請した。
1362年
円覚寺塔頭の黄梅院が北野神社を再建したが、その後荒廃。
1457年
山崎は黄梅院の知行地であった。
1597年
昌清院が創建された。
江戸時代
北野神社が山崎村の鎮守となり、「洲崎神社」とも呼ばれていた。
明治22年
山崎村が深沢村の大字となった。
明治35年
菅原道真没後千年忌で北野神社社殿を修理し、円覚寺全山の僧が参加して盛大な祭礼が執り行われた。
昭和3年
妙法寺が創建された。
昭和23年
深沢村が鎌倉市へ編入された。
昭和42年
住居表示変更で山崎の一部が、台一丁目・二丁目となった。
平成16年
鎌倉中央公園が開園した。

撮影後記

 山崎バス停近くのローソン西側の谷戸の一帯に、宝積寺が建っていたそうです。 宝積寺という名前は京都の寺社に詳しい人なら聞いたことがあると思いますが、その山崎の宝積寺(宝寺)を夢窓国師がまねて建てたとも云われています。 宝積寺の本尊であった十一面観音像は、廃寺になると北野神社に祀られていました。 明治時代になり、神仏分離によって現在は山崎の昌清院に安置されています。 昌清院が円覚寺如意庵の末寺という繋がりからでしょう。 なにはともあれ、山崎という地名が、あのウィスキーで名高い山崎と関係があるのかもと思うと興味深いと思いました。

更新履歴

2011年9月15日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年10月29日
「北野神社紀行」から「山崎紀行」に変更しました。
2014年10月29日
ギャラリーに作品を3点追加しました。

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