坂ノ下

極楽寺切通の坂下

長谷と極楽寺の間に位置し、相模湾に面している。極楽寺切通しの坂下にあることに地名は由来する。鎌倉権五郎景政を主祭神とする御霊神社が鎮座し、毎年町内では、十面の面掛衆が練り歩く「面掛行列」が行われる。

坂ノ下

坂ノ下について

基本情報

名称
坂ノ下(さかのした)
指定
国史跡(仏法寺跡)、歴史的風土特別保存区地区(極楽寺特別保存地区)
交通機関
江ノ電長谷駅から徒歩
所在地
神奈川県鎌倉市坂ノ下

概要

長谷地区と極楽寺地区の間に位置し、相模湾に面している。 「風土記稿」によれば、極楽寺切通しの坂下にあることに地名は由来する。 戦国期に初見し、小坂郷に属していた。 江戸時代になると徳川幕府の直轄領で、村名も同様とみられる。 鎌倉権五郎景政を主祭神とする御霊神社が鎮座し、十面の面掛衆が練り歩く「面掛行列」が行われ、県の無形民俗文化財に指定されている。 極楽寺地区との境界には、極楽寺の有力末寺であった仏法寺跡があり、国の史跡に指定されている。

見所

国史跡
仏法寺跡 - 極楽寺の13世紀後半から17世紀中頃の有力末寺の寺院跡。発掘調査では、山頂付近で葬地や供養遺構を、平場で礎石建物堂舎跡や池跡が見つかった。仏法寺跡の山稜は、「霊鷲山」や「霊山」と呼ばれており 明暦三年(1657年)に仏法寺の堂宇を移築して極楽寺の方丈にしたという。
観光名所
御霊神社 - 創建は平安時代後期と推定される。主祭神の権五郎景政は、鎌倉景成の子で湘南を開拓した開発領主。毎年、伎楽面の特色がある十面の面掛衆が練り歩く「面掛行列」が行われ、県の無形民俗文化財に指定されている。
虚空蔵堂 - 成就院が管理している。本尊の虚空蔵菩薩は行基作とされ、星ノ井伝説がある。1・5・9月の13日に開帳され、1月13日の「護摩焚き供養」は賑わう。境内には漁業関係者の信仰を集める舟守地蔵がある。
星ノ井(星月ノ井、星月夜ノ井) - 鎌倉十井のひとつ。その昔は昼でも暗い山深い場所で、井戸を覗くと星が輝いて見えたという。行基の虚空蔵堂と関係がある。明治時代には、茶店ができて賑わったという。
極楽寺坂切通 - 鎌倉七口のひとつで、極楽寺開山の忍性が開削したと伝わる。新田義貞の鎌倉攻めの舞台となった。中世の切通しは急坂であったといわれ遺構は失われている。現在の極楽寺坂は大正時代に開削されたもの。
鎌倉海浜公園 - 相模湾に面し、由比ガ浜地区、坂ノ下地区、稲村ガ崎地区に分かれている。坂ノ下地区では、海を眺めながら一休みできる三角地広場とプールのある広場がある。三角地広場には源実朝の歌碑「世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ 海人の小舟の 綱手かなしも 」があり、小倉百人一首に収められている。
坂ノ下海岸 - 稲瀬川から稲村ヶ崎までの海岸で、漁師の番屋が並ぶ(長谷地区)。1月2日には漁師の仕事始め「船おろし」が、1月11日には漁師の鏡開き神事「汐まつり」が行われる。また7月海の日には、御霊神社の境内社である石上神社の例祭「御供流し」が行われる。

歴史

平安時代後期
御霊神社が創建されたと伝わる。
13世紀後半
忍性によって極楽寺坂切通が開削されたとされる。
1333年
鎌倉攻めでは、一帯は激戦地となった。
戦国時代
小坂郷に属していた。
江戸時代
幕府の天領であった。
明治22年
町村制施行で西鎌倉村の大字となった。
明治27年
西鎌倉村と東鎌倉村が合併して鎌倉町となった。
昭和14年
市制施行で鎌倉市となった。
昭和47年
住居表示変更で長谷の一部を含めて現在の坂ノ下となった。
平成14年
五合枡遺跡(仏法寺跡)発掘調査で、葬地、供養遺構、礎石建物堂舎跡、池跡等を検出した。

撮影後記

 坂ノ下は昔から漁師町でもあり、地区内には漁業関係に携わる人たちの信仰を集める遺跡があったり、坂ノ下海岸では漁師さんたちの神事が執り行われたりしています。 鎌倉パークホテル前では、冬場を除いて第1日曜日に「鎌倉漁協の魚まつり」と題した朝一が開催され、朝どれ地魚などが並びます。

更新履歴

2014年11月4日
初版をアップロードしました。

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