浄光明寺

足利尊氏の覚悟

1251年、六代執権・北条長時が真阿を迎え創建した真言宗の古刹で、北条氏や足利家とゆかりが深い。足利尊氏は当寺に籠り後醍醐天皇に対し挙兵する覚悟を固めたとも云われる。秋の萩など花暦の豊富な寺院でもある。

浄光明寺

浄光明寺について

撮影後記

 扇が谷でも観光コースの寿福寺~英勝寺~海蔵寺もしくは亀ヶ谷坂から北鎌倉方面からすこし奥まった泉ヶ谷という谷戸にあるので、他に比べれば静かなお寺さん。 山号の泉谷山は谷戸の名にちなむものです。 江戸期建築の山門や阿弥陀堂も見事ですが、一年を通して花暦の豊富な寺院で訪問頻度は高いです。
 歴史の流れを見ると、足利尊氏は後醍醐天皇の赦免を求め、自分のもとどりを切って当寺で一時隠居をしていたそうです。 しかし直義・師直などが各地で劣勢となると、直義に説かれ天皇に叛旗を翻すことを決意し、尊氏にとってのターニングポイントとなった場所とも読み取れます。 こうしたことで得宗家滅亡後も、尊氏直義兄弟より平塚の金目、千葉の東金、沼津の三津などに寺領の寄進を受け繁栄することとなりました。
 境内は、国重文の阿弥陀如来像などを拝観しなければ拝観自由です。
有料区域はというと、谷戸を雛壇状の切岸にした中世寺院の面影が残っていて、鎌倉の寺院らしさが伺えます。 木曜日と土日祝日は公開されていると思います。 ただし8月いっぱいとお昼休み若しくは雨天時は拝観不可になりますので注意を。

概要・歴史

山号を泉谷山とする真言宗泉涌寺派の古刹。 開基は北条長時、開山は真阿、本尊は阿弥陀如来である。 寺伝によれば、源頼朝の願で文覚の建てた堂があった。 1251年、六代執権・北条長時が浄土宗系の僧・真阿を迎え浄光明寺と号す。 長時は36歳で死去し当寺に葬られた。 1333年、後醍醐天皇から上総国と相模国の寺領を寄進され、皇子・成良親王の祈願所となる一方、真言、天台、浄土、華厳、禅、律を含む勧学院が建てられ、四宗兼学の学問道場の基礎を築いた。 1335年、足利尊氏は後醍醐天皇に逆らって鎌倉に下り中先代の乱の平定したため、謀反の意思がないことを示すため浄光明寺に謹慎していたが、弟の直義に説かれ挙兵する覚悟を固めたとも云われる。 室町時代、鎌倉公方の菩提寺となった。 往時は10近い子院があったが、幕末には慈恩院を残すのみで衰微していた。

住所: 神奈川県 鎌倉市扇ガ谷2丁目12-1

更新履歴

2011年2月28日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。
2014年11月20日
ギャラリーに作品を2点追加しました。

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