網走監獄

囚人道路

網走刑務所木造時代の施設は移築され、天都山麓で博物館網走監獄として公開されている。最初、刑務所ではなく、ロシアの南下政策に対抗するため、オホーツクに通じる中央道路開削工事(囚人道路)の役割を担い、劣悪な労働条件で200名以上の死者をだした。

網走監獄

網走監獄について

撮影後記

 網走監獄は、網走刑務所の南側、天都山の麓にあります。 敷地面積は、東京ドーム3.5個分に相当するそうで、広大です。 普段、あまり接することのない刑務所のことを知ることができ、また、食堂には監獄食なるブラックユーモアのようなメニューもあって、囚人気分も味わえ、なかなかおもしろい博物館でした。 長年お世話になって、なつかしい方は、どうぞ壁紙として使ってください。
 ここを訪問して以来、旭川紋別自動車道を通るだびに、人権などなかった時代の囚人たちのことを思い出すようになりました。(概要・歴史参照) 今日の網走や北見などのオホーツク側の都市は、囚人たちの尊い犠牲の上になりたっていたのですね。 まったく、知りませんでした。

概要・歴史

昭和59年、現在の鉄筋コンクリート建ての舎房が建設され、網走刑務所木造時代の施設は移築され、名勝天都山麓で博物館網走監獄として公開されている。 日本で一番脱獄が困難な刑務所だと言われ、明治の脱獄王「西川寅吉」や昭和の脱獄王「白鳥由栄」らが収監された。 また、施設の劣悪さと凶悪犯が多いというイメージから、映画「網走番外地」シリーズの舞台ともなり、刑務所の代表的存在となっている。 さらに、GHQの指令で治安維持法が廃止された終戦直後まで、治安維持法違反の政治犯(徳田球一や宮本顕治など)も収監されていたことがある。 網走刑務所は最初「網走囚徒外役所」と呼ばれ、刑務所ではなく、中央道路開削工事(囚人道路)のための役割を担い、1200人もの囚人が送り込まれた。 これは、南下政策をとるロシアとの対抗上、北海道の軍用道路開削が急務であったためである。 上川から北見峠を越え北見・網走に通じる、通称「囚人道路(現在の国道333号)」をわずか8ヶ月で完成させた際には、200名前後の収容者が死亡、1,000名以上の囚人が行方不明になったと云われる。 昼夜兼行で強行され、逃亡を防ぐため囚人は二人ずつ鉄の鎖でつながれながら(連鎖)の重労働だった。 現在も、道路沿いの畑から、手鎖足鎖を付けた遺体が出土したり、土饅頭の痕跡が残り、これを鎖塚と呼ぶ。

住所: 北海道 網走市呼人1-1

更新履歴

2010年11月12日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。

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