源太桜

桜三里の名残

旧「桜三里」街道に立つ樹齢320年のエドヒガンザクラ。1687年、松山藩代官の矢野五郎衛門源太が、中山越え三里の間に8,240本もの桜を、囚人たちに重労働を課し植えさせた。現在、二本の古桜が残るだけで、いつしかその二本が「源太桜」と呼ばれるようになった。

源太桜

源太桜について

撮影後記

 愛媛ではそこそこ知名度のある銘桜なようで、結構ギャラリーがいました。 桜まで徒歩で向かいます。 結構距離があり、国道から山肌に望めるので、開花状況をチェックしてから向かうといいでしょう。
 桜三里街道は、松山藩領の道前道後をつなぐ重要幹線で、時代とともに変遷しました。 明治35年に旧街道ルートに近い旧国道ができ、昭和二十年代後半に大幅ルート変更で現在の国道11号になったそうです。 その後、緑化推進運動で国道11号の約6キロの間に400本の桜を植え、現在の「桜三里」になったそうです。 源太桜が立っている「旧桜三里」の桜は、千原銅山の煙害や旧国道などの整備で、ほとんど枯れてしまい、今ある2本も本当のところ、藩政時代の生き残りかはわからないようです。

概要・歴史

旧桜三里街道に2本並ぶように残った、樹齢320年の江戸彼岸桜。 その1の桜が樹高25メートル、幹周2.88メートル。 その2の桜が樹高20メートル、幹周2.15メートル。 旧桜三里街道は、貞享四年(1687年)、松山藩田野代官であった矢野五郎衛門源太が、藩命を破り、川内町桧枝皮峠から丹原町落合に至る金毘羅街道(讃岐街道)の中山越え三里(約12キロ)に8,240本のさくらを植えさえた街道である。 源太は、難工事に藩の囚人を酷使し、囚人は「桜三里は源太が仕置き、花は咲くとも実はなるな」怨嗟の声を残したと伝わる。 現在は二本の桜が残るだけで、その故事にちなみ、いつしか「源太桜(げんたざくら)」と呼ばれるようになった。 また、平家の残党(樫原源太季秋)が植えたという説もある。 4月第1日曜日には、「源太桜まつり」が開催され、地元農産物のバザーや川内太鼓の演奏がある。 見頃は、例年4月上旬頃。

所在地: 愛媛県 東温市河之内内桑

更新履歴

2011年8月21日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。

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