関谷

鎌倉野菜の一大産地

鎌倉市の北西端に位置している地区。地名の由来は、玉縄城本丸への関所があったためといわれる。東部は谷戸地形の丘陵部で、西部はなだらかな平地に広大な関谷農地が広がり、「鎌倉野菜」の一大産地となっている。

関谷

関谷について

基本情報

名称
関谷(せきや)
交通機関
JR大船駅・藤沢駅からバス利用
所在地
神奈川県鎌倉市関谷

概要

鎌倉市の北西端に位置し、横浜市戸塚区と接している。 また戸塚区影取町内に飛地を持つ。 地名の由来は、玉縄城本丸への関所があったためといわれる。 もとは「関屋」と書かれていたが、谷戸地形であったため、いつしか「関谷」となったとみられる。 東部は関谷川流域の谷戸地形の丘陵部で、西部はなだらかな平地に広大な関谷農地が広がり、「鎌倉野菜」の一大産地となっている。 この関谷農地は縄文時代の人々の居住地であり、戦後の発掘調査で竪穴式住居跡、土器や石器が出土している。 また東部の洗馬谷横穴群の玄室壁面には、舟に乗って楯を持ち弓を射あっている線刻画が描かれ、奈良時代の横穴とされている。 正保年間(1645年~1648年)城廻村から分村した。

見所

市史跡
洗馬谷横穴群 - 奈良時代から平安時代初期の四穴の横穴。玄室の壁面には、舟に乗って楯を持ち弓を射あっている線刻画が描かれている。
観光名所
関谷地蔵堂 - 堂内に江戸時代作の地蔵菩薩像が奉安されている。右側に寛文四年(1664年)の光背をもった石造地蔵像、左側に石造弘法大師像が安置されている。当初の地蔵堂は甲州街道(鎌倉道)に近い村の辻にあり、昭和13年に現在地付近に移転した。昭和51年の環状四号線の拡幅工事で関谷インター陸橋下に移されたが、交通事故が頻発したため、元の道路脇に戻された。(所在地は城廻)
がっくり橋跡 - 玉縄城北側の関谷インター付近の小川に嘗て架かっていた橋。豊臣方に包囲され玉縄城開城で北条方の兵が落胆のあまり、城を出てこの橋を渡ることさえできなかったと伝わることから「がっくり橋」といわれるようになったという。
関谷遺跡 - 広大な関谷農地は縄文時代の人々の居住地であった。「関谷火の見西方遺跡」「東正院遺跡」「島ノ神遺跡」「島ノ神西遺跡」「長者久保遺跡」「中道遺跡」などから、竪穴住居跡や土器石器などが出土した。現在は埋め戻されている。
関谷公園 - 石原谷戸にある自然豊かな緑地で、「関谷緑地」と称される。竹林、ため池跡があり、オニヤンマやホタル、タヌキ等が観察できる。関谷の鎮守である山王神社も鎮座している。
鎌倉野菜市場 かん太村 - 地元産の新鮮な「鎌倉野菜」の直売所。かん太カレーやお弁当、お惣菜なども販売している。平成22年に鎌倉リーフが設立され、関谷の農業者との賃貸借契約を締結し運営している。

歴史

縄文時代
関谷遺跡から竪穴式住居跡、土器や石器が出土し、縄文時代から人が住んでいた。
奈良時代
洗馬谷横穴群から線刻画が見つかったことから人が住んでいた。
江戸時代前期
玉縄藩が置かれ、本多正信や松平家の所領となった。
1645~1648年
正保年間、城廻村貞宗寺領であった関谷地蔵堂付近が関谷村となった。
1703年
松平家が上総国大多喜藩に転封となり玉縄藩は廃され、天領及び旗本長山氏の相給、後に旗本根岸氏及び伏屋氏の相給となった。
明治22年
関谷村、城廻村、植木村、岡本村が合併して鎌倉郡玉縄村となった。
昭和8年
鎌倉郡玉縄村が大船町に編入された。
昭和23年
大船町が鎌倉市へ編入された。
昭和44年
住居表示変更で玉縄の新町名が誕生し、字山居付近が玉縄に編入された。

撮影後記

 自宅のある極楽寺からだと距離的に最も離れた市内最果ての地です。 鎌倉と呼んでいいのか、もはや鎌倉らしさは感じず、だだっ広い農地が広がっています。 米農家の田圃は一反も見られず、全て鎌倉ブランドを冠した鎌倉野菜のための畑のようです。 収穫した作物を農家で見せてもらいましたが、スーパーで見かける普通の野菜ではなく、一風変わった野菜が多かったですね。

更新履歴

2015年10月17日
初版をアップロードしました。

関谷紀行のコメント

コメント欄

近所に住んでいても
なかなか歴史まで読めていなかったです。
少し参考になりました。

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